『マンガの深読み、大人読み』(夏目房之介著・イーストプレス)の『巨人の星』と『あしたのジョー』論の限界!!

 あしたのジョー』「あしたはどっちだ?」


http://d.hatena.ne.jp/torayosa01/20090605(フジテレビの謎と「あしたのジョー」)

マンガをどう読もうが自由だ。たとえば、オレのこども時代は、歩いて数分のところにある玉書林という貸本屋にお世話になった。白土三平の忍者者が出て、その後、『忍者武芸帳』の大作にであったときは、それぞれの忍者の成り立ちがあまりに克明に描写されており、岩魚などという忍者は本当に魚のようにもぐれるのではないか、と思ったものだ。また、マンガの世界ではあったけれども、岩石雪崩渡りの術などというものが、本当に成立するのではないか、どきどきした記憶がある。オレはこの玉書林という元学校の先生が隠居して経営する貸本屋と、駄菓子屋兼こども対象のお好み焼き屋で、「冒険王」、「少年」、「少年倶楽部」、「少年画報」などの月刊誌で育った。自分ではどの雑誌も買う力がなかったので、小遣いで駄菓子屋に行き、べったん(メンコ)で勝利し、仁丹ガムのカードで野球選手の名を覚えたころ、「少年画報」には武内つなよしの『赤胴鈴之助』が全盛だった。やがて、ラジオドラマで吉永小百合が子役で同名でデビュー、さらに梅若正二(?)が映画で『赤胴鈴之助』をやった、いわゆる実写版での違和感が強烈に頭に残っている。たとえば、真空斬りという技は、「ウっーーーーゥ! やあぁぁぁーーーー! たあぁぁぁ=====!!」という掛け声で手を刀のように前で切るのだが、実写だと、いや、これは少年ジェットと混同している。とにかく、梅若鈴之助はジャズになって、真空斬りをやった(♪真空斬りだ。チャチャチャチャッ!)ので、そのメロディラインが強烈だった。この時代劇は針中野駅駅前の三本立て新東宝大映系の映画館でかかった。
ことほど左様にこども時代、オレはマンガに熱中していわゆる物語(小説)など読んだことがなかった。野球マンガでいえば、寺田ヒロオの『スポーツマン金太郎』などや柔道の『いがぐりくん』であった。

1966年といえば、オレが社会人になった年だ。『巨人の星』の週刊少年マガジン講談社)の連載はこの年に始まった。オレは社会人になり、多忙で仕事を覚えるのと、新しい環境になれるのに夢中で、このマンガに出会ったのは、寮生が大人のクセに熱心に読んでいて、自分もおこぼれを少年マガジンので読んだのがきっかけだった。
川崎のぼる画・梶原一騎原作。
オレはこのマンガがなぜ受けたのか、さっぱりわからなかった。確かに、オレの入ったころ、昼休みに近所の真田山公園でキャッチボールする草野球チームがあり、休みには、軟式の下部組織の大会に出るレベルで、練習試合を組み込まれていたとはいえ、仕事の環境は厳しく、オレのような通いは、物理的に眠る時間が少なくなり、電車では、よく網棚にカバンを忘れた。その当時、オレは文通相手のMにいれあげており、彼女の写真をロッカーや、定期入れに入れていた。
巨人の星』が人気スポコンマンガで人気マンガという認識する余裕などなかった。何が面白いねん、というのが正直な感想だった。だから、オレにとって、花形がどう、とか伴がどうとか、星飛馬がどうとかいわれても、特別な関心はなかった。ただ、なんとなく、休み時間などのそばに読み捨てが置いてあったから、見たという記憶しかない。後年のアニメになっても、まともに見たこともない。しかし、夏目房之介氏の『マンガの深読み、大人読み』によると、「マンガの青年化と読者年齢の拡大、それに伴う主題の高度化、市場の多様化」(106P)という時代のエポックなできごとだったらしい。
やがて、少年マガジンに後に同じ原作者だと知る高森朝雄原作・ちばてつや画の『あしたのジョー』が掲載され出したときは、あらゆる努力をして立ち読みに精をだしたものだ。オレが実はボクシング好きだったからだ。何しろ、玉書林か通いのころ、オレはラジオで矢尾板貞夫とパスカル・ペレスの試合を中継で聞き、その場面の映像を頭の中で描き興奮したことがあった。だから、入社二年後に始まった『あしたのジョー』のテーマはボクシングマンガの金字塔として、オレにも記憶がある。
「あしたはどっちだ?」というジョーには力石徹という壁(ライバル)が存在した。だけど仕事の合間に断片的に読んだので、この夏目房之介のように深く考えたことはない。しかし、1968年から6年間連載された時代は70年安保と万博があり、時代の変革と安定のハザマにオレも生きていた。
確かに、力石の事故死は伝説になり、寺山修司が力石の葬式を行い話題になった。天井桟敷の主催者の詩人・劇作家、寺山修司という名で思い出すのは、その天井桟敷の美術部出身のイラストレーター志望者が、東京から大阪にやってきて、Yイラストレーションの事務所のアシスタントになり、紫乱四郎と名乗り、その先生のパクリの画風をモノのし、安く提供してくれるというので、オレがのちに企画部所属になったころ、ポスターやカタログその他販売促進助成物のラフスケッチ(絵コンテ)に重用され、出入りしていた記憶がある。しかし、『あしたのジョー』の深読みは、三島由紀夫が読者だったり、赤軍派に影響を与えたとか書かれているので、この部分は夏目氏の論によるとそうだったのか、というぐらいで、オレにとっては、三島由紀夫のクーデターによる割腹死など、特別な感慨はなかった。むしろ小田実などをひそかに読み、開高健の『ベトナム戦記』や朝日新聞本多勝一の『戦場の村』や後にフリーから朝日新聞の社員になった石川文洋氏(現在はフリーに戻りお遍路写真でもご活躍))の写真の方が強烈だった。しかし、マンガが青年誌へ先鞭をつけたボクシングマンガとして、オレも力石徹以後も、ホセ・メンドーサとの死闘に毎週興奮した記憶があった。
確かにあの、ちばてつやのラストシーンは話題になった。まっしろに、いや灰色に燃え尽きたジョーは死んだのかどうか、読者の思い入れによってどっちにでも取れる。
そして、二年前のクリスマスイブ、ゆりかもめでお台場に行き、長イス型ベンチに座る矢吹丈がいておれは、ためらわずに、携帯のカメラに収めた。今年、お台場に行ったときには、撤去されたという。しかし、ジョーは確かにいた。モニュメントではあるけれども、想像の世界ではまさに15R闘い、ジョーは燃え尽きた。いま、ボクシングはマッチメークの多彩さを競っているが、ジョーを越えるリアルファイトの存在がオレにはモハメッド・アリだ。実生活でも「オレがベトコンを殺す理由はない」と徴兵拒否、ボクシング資格剥奪の艱難辛苦に耐え、世界平和に貢献したモハメッド・アリ氏を超えるボクサーはいない。

最近、フロイド・メイウェザーがカムバックするらしいが、時代は団体乱立、まさに新自由主義の弊害が顕著で、演出過剰で、ペイパービュードパブリ全盛。日本人チャンピオンも多くでて覚えきれない。