あさこはうす 「北のカナリアたち」最後の一葉

再稼働を目論む関西電力は電力料金値上げを申請2段階とはいえ、真夏の電力料金は大幅に高くなる。10月には8%以上の値上げです。八木という経営者は政商関電が果たしてきた政治献金の過去などどうでもいいのです。大阪市舞洲に独自の発電機を造る計画があったのに橋下市長誕生によりつぶされました。維新はつぶれます。松井知事が代表になっても集票力はありません。しかし、ゾンビのような連中は電信柱を何回も建て替える無駄をしても、50万ボルトの高圧線の電磁波障害で北野台(吉野・六田)の住宅の住民が被災しようともお構いなし。彼ら関係者は住まない。


そしてゾンビな企業はオンカロでも原子力発電の高濃度廃棄物の未来は見えないのに、トイレのないマンションでもプルトニウムを作り続けたい。大間原発MOX燃料だけにさらに危険性は計り知れません。熊紋美子モデルを守るために、わたしも微力ながら反原発反核集団的自衛権行使容認関連の戦争法案破棄、辺野古埋めるなの活動を訴える所存です。

数詞 一

北のカナリアたち』の雄叫びと海猫の鳴き声を思い出す利尻・礼文島におもいをはせつつ。


追伸 吉永小百合さんは最近、岸恵子さんとともに反原発のさらなる意志を表明する共著を出版されました。愛する未来のこどもたちのために。『博士を愛した数式』の博士は回文や文字を瞬時に反対から読み返すことができましたが、ルートに認められるだけでその喜びを表しました。たとえその特技が無用の用であっても、

わたしはたち、いや、わたしは「生きているうちが花なのよ」を実感いたします。

そういう思いが共有できることを願いつつ。




NOMOふたたびNumberに鮮烈!

Number(ナンバー)877号 すべては野茂英雄からはじまった。 (Sports Graphic Number(スポーツ・グラフィック ナンバー)) 雑誌 – 2015/5/7
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00W1YTHYI/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B00W1YTHYI&linkCode=as2&tag=bunshun-22

日本人メジャーリーガーの開拓者の野茂英雄から始まった本格的日本人メジャーリーガーの系譜は、この一冊にまとめられている。感慨深いものがある。元、熱心な野茂英雄ファンとして、その入団時のオープン戦から見続けたものとして、かつて全試合を録画したこともある野茂英雄ファンとして、先駆者の称える企画は素晴らしい。かつて、創刊以来のバックナンバーを揃えていたが、重さで倉庫の棚が落ち、やむなく『Newton』とともに大量に破棄した。残念ではあったが、野茂英雄からのこの特集はAmazonポチしてじっくりと読みたい。

「野茂英雄」健在が嬉しくて

野茂英雄さんが「Number」804で巻頭インタビューされていた。それを読んで、野茂さんはやっぱり野茂英雄なんだ、と元タイガースファンとして野球ファンとして凄く、嬉しい気分になり、過去ログを古いパソコンから探し出し幸いに見つかったので、久しぶりにサッカーファンのオレはブログで野球を書いてみたくなった。それにしてもタイガースよ! 昨日の負け方はいかんぜよ! 別ブログでその秘密も公開準備しているので5割確保して頑張ってよ!


拝啓 野茂英雄 様(その1)

サンフランシスコで(米カリフォルニア州9日《日本時間10日》、貴方は古巣ドジャースに復帰されてから、野茂フリークの私が待ち望んだ勝ち星を95年のメジャーデビューのジャイアンツ相手に挙げられました。あの、初登板で打たれたバリー・ボンズ新庄剛志を抑えてのメジャー通算83勝目、本当におめでとうございます。
私が貴方を尊敬するのは、常にパイオニアワークで球界の先鞭をつけてこられたからです。
思えば、貴方が大阪近鉄に入団されたころは、ブルペンでの投げ込みが全盛で遠投ばかりする貴方を見て、ソウル五輪で見せた150キロを越える速球を本当に投げる投手なのか、と疑ってかかっていました。たしかに、テレビでアトランタでの投球を見てはいましたが、あの後にトルネードと呼ばれるようになったフォームを見て、付和雷同のタイガースファンの私の妻でも奇異なフォームに感じて、「何、あの投げ方」と強烈な印象を語っていたものです。
入団当時(90年)、4月1日大阪近鉄との定期戦のオープン戦最終戦が県立橿原球場で行われました。私は今でこそ橿原球場に近い吉野の田舎暮らしですが、そこころはまだ大阪の摂津に住み、橿原球場までのクルマの渋滞がとても遠くまで来たと感じたものでした。
忘れもしません。レフトスタンドの桜が満開になり芝生席はタイガースファンで埋まっていましたね。貴方はそこでも、登板前の遠投を入念にやり、相手しているキャッチャーをてこづらせていました。何しろ貴方の遠投は言葉の本当の意味での遠投で100メートルほど離れてのキャッチボールであり、そのボールが受けての手元で伸びてくるようだったのですからね。
ですが、試合では噂の150キロ速球は全然ありませんでした。まっすぐとフォーク。たまに思いだしたように投げるあまり曲がらない(失礼)カーブで貴方はタイガース打線を抑えていました。打てそうで打てない球を唯一完璧に打ったのがあの真弓明信(現大阪近鉄ヘッド兼打撃コーチ)でした。レフトスタンドへタイガースの洗礼(既にオープン戦被本塁打5本)ともいえる一発を浴びましたが、貴方は平然と、顔色ひとつ代えられませんでした。5四球されましたが、6回投げ1安打4三振、2失点で簡単に勝ち投手になられました。貴方の評価は評論家間でも大きく分かれていました。「あのフォームではだめ、まっすぐとフォークだけではだめだ。プロでは通用しない」
しかし、私は貴方の投げ方にパイオニアの凄みを感じワクワクしていました。なぜか、理由は簡単でした。全然、スピードボールが投げていないのに、それでも抑えたという事実でした。
以後、野茂英雄のポーカーフェースは有名になりました。私はタイガースファンではありますが、もともと近鉄沿線に住み育ち、藤井寺球場大阪球場は少年時代はやった三角ベース野球育ち世代のフィールドでした。ですから、近鉄、南海選手の方が子供には接する機会が多かったものです。
私は貴方の試合をタイガースファンではありますが、こっそりとよく見ました。

藤井寺大阪球場のナイターに通いました。尾崎投手(浪商高)の記録を破る最短の100奪三振がかかった試合(6月13日・大阪球場)は貴方の調子が悪く悲惨な感じ(9回5失点)を思いだします。三振は取るけど得点も与える。しかし、貴方はダイエーホークスと変わったチームのメジャーリーガー、ウイリー・アップショー相手に見事に100三振(七回)を記録したかと存じます。そして10三振を奪い完投勝ちされました。
その後、貴方は4年連続最多勝、日本人投手としてのパイオニアとしての投球を続けられました。5年目に肩を痛めての登板過多と鈴木監督との軋轢によって、貴方は5年連続二桁勝利や連続最多奪三振最多勝など、すべての記録をフイにして、オフはリハビリに専念しておられました。
そして、オフの任意引退ダン野村氏を代理人に立ててのメジャー移籍。当時の貴方とダン野村氏に対するパッシングは異常でした。しかし、堀江謙一氏が「太平洋ひとりぼっち」でヨットで太平洋横断したときも、行くときは合法的に行く手段がなかったのです。
貴方はマスコミのパッシングをものともせずに、マイナー契約ドジャースに入団されました。「メジャーで野球をやりたい」の一心で大きな人生の夢に賭け堀江謙一氏が「太平洋ひとりぼっち」の航海に出たように、メジャーの厳しいロースターに船出されました。
(以下次号)

野茂英雄 - Wikipedia

拝啓 野茂英雄 様(その2)

貴方は数々の難関をクリアして、95年5月12日ジャイアンツ戦でデビューされました。今季貴方に続く石井投手がドジャースの日本人投手に加わり、初登板初勝利という快挙で続かれました。もっとも、貴方が拓いた道のお陰で日本人投手のメジャーリーガーはめずらいしものでなくなり、昨年はイチロー選手や新庄選手が野手として初めてメジャーリーガーとなり、今季は田口選手も挑戦しておられます。
ところで現地ロサンゼルスではドジャースではなくダジャースと発音するそうですね。
当時、私は衛星放送で貴方の登板予定の試合をすべてビデオに撮りました。それだけではおさまらず、野茂ツアーへの参加を企て、チャンスを待ちました。貴方の所属するドジャースナショナル・リーグ西地区で快進撃を続け、地区優勝を争そっていましたね。
思えば5月2日ジャイアンツ戦にメジャー初登板、6月2日のメッツ戦で8回3分の0投げて待望の初勝利、以後6連勝。その中には2連続完封も含まれていましたね。その頃から、地元のマスコミのローレンス・ロッカ記者(オレンジ・カウンティレジスター紙)などの報道が日本でも話題になり、日本のマスコミも大騒ぎ、あの、貴方へのパッシングは何だったのか、と思うほかありませんでした。
地元でも5月には想像できなかったことが、現地で起きていました。「野茂をオールスターに出そう!」――当時の記録を調べていると、ロッカ記者がジャイアンツのあのボンズに必要にくいさがって取材する光景が書いてありました。
《「ノモを見て、貴方が思い出す投手はいますか」》
《それはノモだよ。ノモはノモでいいんじゃないか」と》ボンズを野茂恐怖症にまで追い込んだというではありませんでしたか。
 7 月11日、貴方はメジャーのオールスターに選ばれたばかりか、ナショナルリーグのの先発投手を務められました。ロッカ記者の『NOMO in AMERICA』によりますと、当時の《ブレーブスの主砲マクグリフが目を丸くする。「こんな光景、オレの人生で見たことないよ。この世のモノとは思えんぞ」》と言ったというフィーバーぶりが伝えられていました。ダッグアウトまでたどりつくのが大変だったというのですから、その光景は想像しても痛快だったものです。そして、私はテレビで見た記憶だけをたどると、当時ホワイト・ソックスの主砲ベルに対して真っ向勝負で三振に取ったことが鮮明に残っております。
さて、私は貴方がロッキーズと壮烈なデッドヒートで首位争いする姿を見るために、ついに格安野茂ツアーでロサンゼルスまで行きました。当時14万円、夏休みシーズンなら20万円以上かかったツアーが14万円、しかも我が阪神タイガースは中村監督の途中休養、藤田ファーム監督の監督代行で球団創設60周年を最下位で終わろうというシーズン、人生でこの一週間を逃したらきっと後悔すると思い、決断しました。しかし安いツアーゆえホテルはアナハイム(確か翌年長谷川がエンゼルス入団)でした。クルマでロサンゼルスまでフリーウエーを飛ばしてたっぷり40分はかかる。昼間はデズニィー見物。夜はナイターでドジャースに通うため、私は初めてレンタカーを借り初めての左ハンドルと車線の違いに苦しみながら3日間のドジャースタウン通いを始めました。ハワイのように日本語は通じず、フリーウエーで道に迷ったときは、悲惨でした。しかし、私はドジャースの試合を見たい一新で映画で見るような古ぼたガソリンスタンドで黒人の大男に道を尋ねたりしました。「※※△×ストリート、レフトターン。ユーシー」とか、いわれても速すぎる。「スローリー」とか言いながら、とにかくまたフリーウエーを走る。3度間違えてドジャースタウンに着き、広い駐車場に着いたときは、すでに試合が始まっていました。私は関係者駐車場に止め、そこの係りの青年に5ドルもチップをはずみ大目にみてもらい、ダフ屋から切符を買って球場入りドジャースタウン初体験を終えたのです。
3日目、貴方は9月24日のデー・ゲームで先発されました。調子悪いようでしたが5回を2失点に抑えツアー客を喜ばせてくれました。とにもかくにも、貴方が試合前の打撃練習で楽しそうに野球小僧していた姿が忘れられません。若いメキシカンのバルデスやエースのラモン・マルチネス、そして、マイナーから40人枠でメジャー昇格した若き日の朴チャンホー投手(今季FA移籍)などと話し本当に野球を楽しんでおられました。その後のメジャーでの波乱万丈を経てのドジャース復帰、本当におめでとうございます。昨日は貴方の好投が報われず敗戦投手になられたようですが、地区優勝はもちろん、リーグ優勝、初のワールドシリーズ出場を楽しみにしております。

                      敬 具

追伸 余談ですが、このツアーではローテーションの関係で貴方の登板は翌日が濃厚だったそうですね。多くのツアー客がそのために一泊追加をしていましたが、私はどうしてもそうできない事情があり、貴方が登板する方に賭けました。そして私は賭けに勝ち、一日暇を持て余したほかの客を悔しがらせ、貴方は勝ち投手になられました。30日のパドレス戦で毎回奪三振11の好投で2失点に抑え、胴上げ投手(13勝目)になられ地区優勝に貢献されたのでした。

辺野古をお埋めるな! 高江のヘリパット造るな!


沖縄知事選に喜納昌吉氏が出馬するらしい。しかし、わたしは喜納昌吉氏の沖縄民主党県連での政治的姿勢を考えると、遅れての出馬は利敵行為になるだけだと感じていた。「辺野古移転工事撤回公約」は確かに大前提であるかも知れないが、沖縄の普天間基地移設問題は日米地位協定もからみ一筋縄ではいかない。しかも沖縄の本土化を加速するだけ、つまり沖縄経済界の根本的な解決につながらない、自公政権の「金」つまり交付金という人参にくいつくだけだは、古くは北海道の苫東の工業地帯開発構想の破綻にみられるように、本土民間業者の利益のための公共事業だけが促進され、本来の目的だった沖縄経済界が基地に依存しない体質脱皮になるべく、沖縄経済界自立志向がどこかに追いやられる。

仲井真知事のこのたびの政府並びに米国への屈服による辺野古移設を前提とした立候補は既定事実をつくり沖縄県民を対立させ、分断統治したい為政者にはもっとも汲みやすい知事である。


反戦な家づくり様ブログ

反戦な家づくり 喜納昌吉氏の立候補はおかしい (追記あり)喜納昌吉氏の立候補はおかしい (追記あり

反戦な家づくり 沖縄県知事選 「承認撤回」を公約するのは是か非か

そういう疑問がある中、「反戦な家づくり様」のブログの意見がでていた。前後して、植草一秀氏が「辺野古撤回公約をせよ!」と翁長雄志氏に迫り、その公約の言質が取れないことで、喜納昌吉氏の担ぎ出しに結果として、動き出した。わたしは植草一秀氏のこの行動に疑問を持っている。確かに建前は、撤回が理想だ。しかし、その理想をお実現しうる対抗馬として、勝てない候補の可能性が高い、しかも後出しジャンケンで結果として仲井真知事陣営を援護する形になる恐れのある、喜納昌吉氏がいまさら出馬しても、民主県連そのものが一枚岩ではない。

それならば、ベターを選ぶしかない。少なくとも沖縄経済界のことは沖縄で自立的に決める、という姿勢を打ち出した翁長雄志氏の方が「まっし」だ。もともと民主党政権がたんじょうしたとき、国民新党の裏切り者の下地氏などは論外だろう。しかし、沖縄県民でない外野のヤマトンチュが何を口出しする、ということになり兼ねない。



わたし自身は『標的の村』の高江ヘリパットのオスプレイ配備基地建設のドキュメント映画を見て涙だでた。まさに住民の標的にし、今度もまたオスプレイ配備の規制化が進み、日本列島の米軍基地を飛び出した。わたしが一昨年まで住んでいた相模原のに隣接する厚木にも飛来し規制事実を着々と作っている。

小笠原諸島のように「不肖宮嶋」カメラマンがオスプレイ歓迎、を、文春グラビアで訴えたところで、いざとなれば、米軍は日本を守ってくれる保証はない。東日本大震災の米軍の友達作戦は立派ではあるが、その後の請求書の額は計算に入ってなかった。オスプレイは軍備のための兵器だ。

仮初めの姿に小笠原諸島の住民が「交通手段として御意!」というのは勝手だが、オスプレイはあくまでも兵器である。災害救助のためのヘリコプターでも飛行機でもない。兵器だ。

そう考えると、「まっし」な方の翁長雄志氏知事誕生の方が、米軍基地からの依存からの脱却の沖縄経済自立のの第一歩が築けるのではないか、というのが外野のヤマトンチュのわたしの思いだ。沖縄はわずか100数十年も遡れば、独立王国だったことは、周知の事実だ。確かに明の柵封体制に組み込まれたり、島津の侵略に苦労したが、独自外交により、沖縄は独立していた。それをヤマトンチュが天皇の名のもとに王様を幽閉し、廃藩置県して琉球王国沖縄県に組み込んだのだから、北海道のアイヌへの搾取やアイヌモシリ侵略より露骨にわかりやすい。

わたしが翁長雄志の方がベターと思うのはもうひとつの理由がある。

これはアホみたいな話だが、あるとき桂文枝師匠の司会する『新婚さんいらっしゃい』という番組を見ていたら、那覇市長の娘さん夫婦がでていた。正直びっくりした。このような陽気な娘さんがおられるのなら、保守思想結構、ヤマトンチュに媚びるも結構、ただ、沖縄の経済は沖縄の経済界主導でやる、という気概に期待したい。そうすれば、最初の第一歩が切れるのではないか? 

選挙は勝たないと何もできない。また、大阪の橋下知事及び辞任の市長転出に見る通り、安倍政権が突然、集団的自衛権行使のための法案審議を棚上げにして、「地方創生」や「女性登用!」など打ち出しても、沖縄県という地方が本土の、民間企業の御用聞きのように地方の公勢力が、かつての田中角栄時代の新全総のごとく、私企業のための公共事業では頭打ちになるのは歴史が証明している。

具体的にいえば、北海道の二風谷の自然を破壊し巨大工業地帯をつくろうとした「苫小牧東部工業地帯開発」つまり「苫東」の例の挫折が証明している。しかし、自公政権は自然破壊するしか手段のない輸送手段の「リニアモーター」の開発を後押しすべき準備完了。どこが国土強靭化だ。地震・火山の宝庫にトンネル掘って、新幹線より少し早く東京⇒大阪間が早くなったところで、どれほどの価値があるのか。火山爆発・地震のリスクは今回の御嶽山の噴火が警鐘を鳴らしていると感じるひとも多いのではないだろうか。

沖縄への思い安室ちゃん好きv( ̄Д ̄)v イエイ!!で2006年namie amuroLIVESTYLE の15周年アニバサリーで普天間基地に隣接の宜野湾市コンベンションセンターでの公演があまりにも素晴らしく、わたしはサミットに全面的に与するものではないが、このブログで記録しておきたくなった次第。

12月8日追記 その後衆議院選挙hが始まり喜納昌吉氏がどのような行動をとったか、下地幹郎がどのようないい加減なことで出馬しているか、また10日まで知事の仲井真がどのような卑劣な県民批判をさかなでしたか、沖縄県民ならずとも米国の狗としての仲井真や下地の行動を覚えておきたい。

そして喜納昌吉氏は「何やってんだ!」ということだ。口先番長のマネすんなよ!!「ハイサイおじさん」も泣いてるやろ!
NEVER END!

いつでも雨が降れば花が咲く(その1):TORAYOSAの今日のきまぐれ:So-net blog
いつでも雨が降れば花が咲く(その1)
amuro namieの不可解(その1)シリーズ一挙無料公開

数詞 一」




http://torayosa.blog.so-net.ne.jp/2010-03-18元記事は四年前の3月3日




勝連沖案のとんでもなさ (目取真俊様ブログより)http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/74317ee41418daf8ae8b84d09fca10ef 目取真俊様のこの民意を敵に回す民主党政府は沖縄を何と思っているのか。ANよ!いまこそ立ち上がれ!キミのふるさとに平和を! この愛を受け止めてださい。

いま、イラクで選挙が行われている。しかし、このイラクにブッシュが侵略戦争を仕掛け、日本が名古屋地裁違憲判決で出た自衛隊サマワへ派遣したのが小泉元首相の愚行だった。いったい、その戦闘機や海兵隊はどこから、どこの基地から出たのか。私のような団塊世代ベトナムの南に傀儡政権を作り、べトコン(と差別し)虫けらのようにベトナム兵ばかりではなく、民間人をあらゆる兵器で殺し続けたアメリカの姿を思い出す。しかし、ベトナムの解放戦線は強かった。本物だった。ホーチミン北ベトナムについにアメリカは負けた。

なぜか、社会主義だからとか言う前に、民衆が民意がアメリカの傀儡政権を「ノー」と言い続けたからだった。そして海兵隊空爆機はどこから飛んで行ったのか。日本は大きな役割をになった。空前のベトナム特需で日本の産軍複合企業も潤った。わたしは、72年の沖縄返還前に沖縄旅行を思い立ち、勤めていた会社に長期連休を申請した。しかし零細企業の社長は激怒して却下した。黄金週間を形式的には存在した、就業規則の有給休暇を利用しての9日連休を申請したのだったが、翌年わたしは会社を辞めるきっかけになった。

ベイ平連の(ベトナムに平和を市民連合)のデモなどにひそかに参加するようになっていたので、本土返還前の沖縄を単純に見聞したかったのだ。しかし、叶わなかった。訪れたのは返還後の73年か74年だった。

1ドルハウスが那覇の國際通りの裏道に入ればあり、まだアメリカの余韻は残っていた、何よりも嘉手納基地の広さは現地に来て初めて実感した。ここから、空爆の大きな爆撃機が飛んでいたのか、と改めて思った。

本部方面も行き、海洋博予定地も行ってみた。もちろん南部戦線めぐりなどの観光と鎮魂の地も訪ねた。

最近、『創』1月号の「ぢぢ放談」の永六輔さんの歌や発言(矢崎さんとの対談)を読んでいつも、読み返してる。
今も手元にある。

ここはどこだ
作詞 永六輔 作曲 いずみたく


それを記述しておきたい。


ここはどこだ いまはいつだ なみだは かわいたのか/ ここはどこだ いまはいつだ/ いくさは おわったのか/ ここはどこだ きみはだれだ/ なかまは どこへいった/ ここはどこだ きみはだれだ/ にほんは どこへいった/ 流された血を/ 美しい波が洗っても/ 僕たちの島は/ それを忘れない/ 散ったヒメ百合を忘れはしない/ 君の足元で歌いつづける/ ここはどこだ いまはいつだ/ いくさは おわったか/ ここはどこだ きみはだれだ/ にほんは どこへいった/
引用おわり

1966年沖縄返還の6年前の歌だ。泥沼のベトナム戦争が続いた。 「にほんは どこへいった」

ヤマトンチュ(本土目線)でアメリカのご機嫌取りしていていいのか。下地は沖縄出身だけれども、キャンプシュワブ陸上案など出し、昨年の総選挙の公約などどこ吹く風なのだ。永六輔さんの発言を借りるなら、

民主党も、「生活者主権」を標榜するなら、もっとウチナーチュの生活しらなきゃ

ということになる。なにしろ、嘉手納基地で「浅田飴」の宣伝のために「咳(せき)、声、喉に浅田飴」とCMを飛行機の轟音の前でやった人だ。年季の入り方が違う。

日本の「政権交代」もいまはどこだ ここはどこだ 「にほんは どこへいった」が問われているのだ。

イラクの次はアフガニスタンが待っている。
沖縄返還協定の密約が暴露された。もう一歩前進して今度は、日本の独立を求め、琉球沖縄県自治権をまず、民意を尊重して政策に反映すべき番だ。日米安保50年はその前提がないと、平和はないのではないか。

安室ちゃん好きv( ̄Д ̄)v イエイ! と沖縄知事選と辺野古


沖縄知事選に喜納昌吉氏が出馬するらしい。しかし、わたしは喜納昌吉氏の沖縄民主党県連での政治的姿勢を考えると、遅れての出馬は利敵行為になるだけだと感じていた。「辺野古移転工事撤回公約」は確かに大前提であるかも知れないが、沖縄の普天間基地移設問題は日米地位協定もからみ一筋縄ではいかない。しかも沖縄の本土化を加速するだけ、つまり沖縄経済界の根本的な解決につながらない、自公政権の「金」つまり交付金という人参にくいつくだけだは、古くは北海道の苫東の工業地帯開発構想の破綻にみられるように、本土民間業者の利益のための公共事業だけが促進され、本来の目的だった沖縄経済界が基地に依存しない体質脱皮になるべく、沖縄経済界自立志向がどこかに追いやられる。

仲井真知事のこのたびの政府並びに米国への屈服による辺野古移設を前提とした立候補は既定事実をつくり沖縄県民を対立させ、分断統治したい為政者にはもっとも汲みやすい知事である。


反戦な家づくり様ブログ

反戦な家づくり 喜納昌吉氏の立候補はおかしい (追記あり)喜納昌吉氏の立候補はおかしい (追記あり

反戦な家づくり 沖縄県知事選 「承認撤回」を公約するのは是か非か

そういう疑問がある中、「反戦な家づくり様」のブログの意見がでていた。前後して、植草一秀氏が「辺野古撤回公約をせよ!」と翁長雄志氏に迫り、その公約の言質が取れないことで、喜納昌吉氏の担ぎ出しに結果として、動き出した。わたしは植草一秀氏のこの行動に疑問を持っている。確かに建前は、撤回が理想だ。しかし、その理想をお実現しうる対抗馬として、勝てない候補の可能性が高い、しかも後出しジャンケンで結果として仲井真知事陣営を援護する形になる恐れのある、喜納昌吉氏がいまさら出馬しても、民主県連そのものが一枚岩ではない。

それならば、ベターを選ぶしかない。少なくとも沖縄経済界のことは沖縄で自立的に決める、という姿勢を打ち出した翁長雄志氏の方が「まっし」だ。もともと民主党政権がたんじょうしたとき、国民新党の裏切り者の下地氏などは論外だろう。しかし、沖縄県民でない外野のヤマトンチュが何を口出しする、ということになり兼ねない。



わたし自身は『標的の村』の高江ヘリパットのオスプレイ配備基地建設のドキュメント映画を見て涙だでた。まさに住民の標的にし、今度もまたオスプレイ配備の規制化が進み、日本列島の米軍基地を飛び出した。わたしが一昨年まで住んでいた相模原のに隣接する厚木にも飛来し規制事実を着々と作っている。

小笠原諸島のように「不肖宮嶋」カメラマンがオスプレイ歓迎、を、文春グラビアで訴えたところで、いざとなれば、米軍は日本を守ってくれる保証はない。東日本大震災の米軍の友達作戦は立派ではあるが、その後の請求書の額は計算に入ってなかった。オスプレイは軍備のための兵器だ。

仮初めの姿に小笠原諸島の住民が「交通手段として御意!」というのは勝手だが、オスプレイはあくまでも兵器である。災害救助のためのヘリコプターでも飛行機でもない。兵器だ。

そう考えると、「まっし」な方の翁長雄志氏知事誕生の方が、米軍基地からの依存からの脱却の沖縄経済自立のの第一歩が築けるのではないか、というのが外野のヤマトンチュのわたしの思いだ。沖縄はわずか100数十年も遡れば、独立王国だったことは、周知の事実だ。確かに明の柵封体制に組み込まれたり、島津の侵略に苦労したが、独自外交により、沖縄は独立していた。それをヤマトンチュが天皇の名のもとに王様を幽閉し、廃藩置県して琉球王国沖縄県に組み込んだのだから、北海道のアイヌへの搾取やアイヌモシリ侵略より露骨にわかりやすい。

わたしが翁長雄志の方がベターと思うのはもうひとつの理由がある。

これはアホみたいな話だが、あるとき桂文枝師匠の司会する『新婚さんいらっしゃい』という番組を見ていたら、那覇市長の娘さん夫婦がでていた。正直びっくりした。このような陽気な娘さんがおられるのなら、保守思想結構、ヤマトンチュに媚びるも結構、ただ、沖縄の経済は沖縄の経済界主導でやる、という気概に期待したい。そうすれば、最初の第一歩が切れるのではないか? 

選挙は勝たないと何もできない。また、大阪の橋下知事及び辞任の市長転出に見る通り、安倍政権が突然、集団的自衛権行使のための法案審議を棚上げにして、「地方創生」や「女性登用!」など打ち出しても、沖縄県という地方が本土の、民間企業の御用聞きのように地方の公勢力が、かつての田中角栄時代の新全総のごとく、私企業のための公共事業では頭打ちになるのは歴史が証明している。

具体的にいえば、北海道の二風谷の自然を破壊し巨大工業地帯をつくろうとした「苫小牧東部工業地帯開発」つまり「苫東」の例の挫折が証明している。しかし、自公政権は自然破壊するしか手段のない輸送手段の「リニアモーター」の開発を後押しすべき準備完了。どこが国土強靭化だ。地震・火山の宝庫にトンネル掘って、新幹線より少し早く東京⇒大阪間が早くなったところで、どれほどの価値があるのか。火山爆発・地震のリスクは今回の御嶽山の噴火が警鐘を鳴らしていると感じるひとも多いのではないだろうか。

沖縄への思い安室ちゃん好きv( ̄Д ̄)v イエイ!!で2006年namie amuroLIVESTYLE の15周年アニバサリーで普天間基地に隣接の宜野湾市コンベンションセンターでの公演があまりにも素晴らしく、わたしはサミットに全面的に与するものではないが、このブログで記録しておきたくなった次第。

12月8日追記 その後衆議院選挙hが始まり喜納昌吉氏がどのような行動をとったか、下地幹郎がどのようないい加減なことで出馬しているか、また10日まで知事の仲井真がどのような卑劣な県民批判をさかなでしたか、沖縄県民ならずとも米国の狗としての仲井真や下地の行動を覚えておきたい。

そして喜納昌吉氏は「何やってんだ!」ということだ。口先番長のマネすんなよ!!「ハイサイおじさん」も泣いてるやろ!
NEVER END!

いつでも雨が降れば花が咲く(その1):TORAYOSAの今日のきまぐれ:So-net blog
いつでも雨が降れば花が咲く(その1)
amuro namieの不可解(その1)シリーズ一挙無料公開

数詞 一」




http://torayosa.blog.so-net.ne.jp/2010-03-18元記事は四年前の3月3日




勝連沖案のとんでもなさ (目取真俊様ブログより)http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/74317ee41418daf8ae8b84d09fca10ef 目取真俊様のこの民意を敵に回す民主党政府は沖縄を何と思っているのか。ANよ!いまこそ立ち上がれ!キミのふるさとに平和を! この愛を受け止めてださい。

いま、イラクで選挙が行われている。しかし、このイラクにブッシュが侵略戦争を仕掛け、日本が名古屋地裁違憲判決で出た自衛隊サマワへ派遣したのが小泉元首相の愚行だった。いったい、その戦闘機や海兵隊はどこから、どこの基地から出たのか。私のような団塊世代ベトナムの南に傀儡政権を作り、べトコン(と差別し)虫けらのようにベトナム兵ばかりではなく、民間人をあらゆる兵器で殺し続けたアメリカの姿を思い出す。しかし、ベトナムの解放戦線は強かった。本物だった。ホーチミン北ベトナムについにアメリカは負けた。

なぜか、社会主義だからとか言う前に、民衆が民意がアメリカの傀儡政権を「ノー」と言い続けたからだった。そして海兵隊空爆機はどこから飛んで行ったのか。日本は大きな役割をになった。空前のベトナム特需で日本の産軍複合企業も潤った。わたしは、72年の沖縄返還前に沖縄旅行を思い立ち、勤めていた会社に長期連休を申請した。しかし零細企業の社長は激怒して却下した。黄金週間を形式的には存在した、就業規則の有給休暇を利用しての9日連休を申請したのだったが、翌年わたしは会社を辞めるきっかけになった。

ベイ平連の(ベトナムに平和を市民連合)のデモなどにひそかに参加するようになっていたので、本土返還前の沖縄を単純に見聞したかったのだ。しかし、叶わなかった。訪れたのは返還後の73年か74年だった。

1ドルハウスが那覇の國際通りの裏道に入ればあり、まだアメリカの余韻は残っていた、何よりも嘉手納基地の広さは現地に来て初めて実感した。ここから、空爆の大きな爆撃機が飛んでいたのか、と改めて思った。

本部方面も行き、海洋博予定地も行ってみた。もちろん南部戦線めぐりなどの観光と鎮魂の地も訪ねた。

最近、『創』1月号の「ぢぢ放談」の永六輔さんの歌や発言(矢崎さんとの対談)を読んでいつも、読み返してる。
今も手元にある。

ここはどこだ
作詞 永六輔 作曲 いずみたく


それを記述しておきたい。


ここはどこだ いまはいつだ なみだは かわいたのか/ ここはどこだ いまはいつだ/ いくさは おわったのか/ ここはどこだ きみはだれだ/ なかまは どこへいった/ ここはどこだ きみはだれだ/ にほんは どこへいった/ 流された血を/ 美しい波が洗っても/ 僕たちの島は/ それを忘れない/ 散ったヒメ百合を忘れはしない/ 君の足元で歌いつづける/ ここはどこだ いまはいつだ/ いくさは おわったか/ ここはどこだ きみはだれだ/ にほんは どこへいった/
引用おわり

1966年沖縄返還の6年前の歌だ。泥沼のベトナム戦争が続いた。 「にほんは どこへいった」

ヤマトンチュ(本土目線)でアメリカのご機嫌取りしていていいのか。下地は沖縄出身だけれども、キャンプシュワブ陸上案など出し、昨年の総選挙の公約などどこ吹く風なのだ。永六輔さんの発言を借りるなら、

民主党も、「生活者主権」を標榜するなら、もっとウチナーチュの生活しらなきゃ

ということになる。なにしろ、嘉手納基地で「浅田飴」の宣伝のために「咳(せき)、声、喉に浅田飴」とCMを飛行機の轟音の前でやった人だ。年季の入り方が違う。

日本の「政権交代」もいまはどこだ ここはどこだ 「にほんは どこへいった」が問われているのだ。

イラクの次はアフガニスタンが待っている。
沖縄返還協定の密約が暴露された。もう一歩前進して今度は、日本の独立を求め、琉球沖縄県自治権をまず、民意を尊重して政策に反映すべき番だ。日米安保50年はその前提がないと、平和はないのではないか。

転載 『いちご白書をもう一度〝愛の形〟 白い本の充填』

白い本の充填〝恋文の形〟新構想小説のブログ無料公開シリーズ
いつでも雨が降れば花が咲くシリーズ

いちご白書をもう一度(その1)

ちょっとだけ公開!




白紙本の充填

『恋文の形』




数詞 一





 序


謹んで部我路奈様に

捧げます

数詞はじめ

二○一三年四月吉日


乱雑な字で白紙本の頁になんの前触れもなく〝奴〟の文字が並んでいた。日付は1974・6

ひとは僕が恋のことで随分と
悩んでいると思っている
だけどひとが思うほど
自分のこころは乱れてはいない
たださびしいのは人を好きになることが
理想とはまったく違うところで
やっぱり僕のこころが動くことだ
縁がなければ諦めるしかないのだけれど
ひとを恋し好きになることを
あなたのような聡明なひとは
きっとわかっていないのだろう
いや僕のこころに感じ入られないのは
当然だったのかも知れません

僕はあなたの摩周湖のような
澄んだ眼が好きでした
あなたのような美しい眼は
ダヴィンチだって描きえないでしょう
そして、ダヴィンチだってきっと見つけることが
できない女性でした

白いフェンスが瀟洒に続く
二階建ての赤い屋根を見つければ
いまも僕のこころはなごやかになります。
生きることの喜び感じられた
一瞬はすっかり過ぎ去りました


 三寒四温の日々がいきなり桜が早咲き、桜前線が四月半ばには仙台まで届いたというのに、昨日の冷たい風はどうしたのだ。前日は奈良・吉野でも真夏にまで温度が上がり毛布がいらなくなったというのに、一は四月十九日に全国で放映されるという『リンカーン』を観にゆく予定だった。しかし、あえて、電車の時間表を確認しなかった。当日は仮家で三時三○分に目覚めた。深夜のチャンピオンズリーグリーガ・エスパニョーラなどを観るために、CS・BSアンテナをつけ、WOWOWやサッカー欧州パックに加入している。
 その習慣で目覚ましを午前三時三○分と七時に合わせている。目覚ましとして愛用しているのが旧ムーバのドコモ携帯からダウンロードした着メロと安邑奈美恵ファンサイトからダウンロードした画像だ。着メロは筆記の『桜ドロップス』であり、七時は『First Love』だ。この着メロに奈良・吉野に来ると野鳥のさえずりが加わる。ついちょっと前までは下手なウグイスも庭に来ていたものだが、さすがに四月半ば過ぎ、吉野の山桜も奥千本ぐらいしか残らない季節、大阪では、造幣局の通り抜けが賑やかになる週末、朝は雨らしいが昨日、朝のACC朝美放送の元気ぶりは、大阪ならではなはしゃぎぶり。榎田から三連敗するのだけは避けたい。一は、前日の肉缶スポーツのT氏のの叫びにも似たトチリ(東京ドームがホームランが出やすい球場なのに、興奮のあまり球場は「ホームランが出にくい」の発言! アナウンサーも心得て、やんわりと進行を途切れさせないあ・うんの呼吸!)
 Tさんが「ずっこいわ! うちも味方についてくれないと…」の意志さすれば、ならば応えて見せようぞ! をツイッターと実行動でいわゆる讀賣巨人軍にプレッシャーをかける内容を『春日NOTE2』に仕込んでおいた。どれほどの効果期待できるかわからなかったが、効果てきめん、いきなり澤村を攻め、鳥谷のタイムリーなどで二点先制! 四回には絶好調マートンがレフトへツーラン本塁打。その後もマートンは三打点の活躍、捕手の日高も本塁打の〝ツボ〟を持ち、加点などで八対一の快勝。朝のACC朝美放送七時から〝好シーン〟の長回し、コメンテーターには、一からいわせれば、〝まぼろしの四番打者〟Hがでているのだからびっくりだ。一が二軍中心のファンたちに期待されて書いたメールマガジンの連載は『いつも心に浜風を』だったことは甲子園球場といえば、六甲下しと浜風というのはもちろんだが、野網監督がHを天才的変化球打ちの上手さを見込み当時二軍監督だった陸時正善(おかじ しょうぜん)が育てた素材を、異邦人監督の飯星景二監督が二○○二年に就任すると〝四番打者〟の英才教育のチャンスを与えた逸材だったからだ。同期入団には右の代打で活躍する〝賢太郎〟こと関本賢太郎がいる。あのHだ。いや陽気なことまさに春爛漫! 五割に戻っただけでたむきん太郎もここまでバンザイできるか、という勢い。もちろん一は大阪が阪神タイガースの勝ち負けで朝のテレビ・ラジオの報道がどのような雰囲気になるかを肌で知っている。自らも四半世紀近く末席ながら仕事に関わってきていたのだ。わかる。だから、いま関西に住むことに不満はないが、正直、いまでも〝仮家〟はつらい。
 見たくもない元妻の顔や、うっとおしい仕草を見、風呂に入るのも気を使う、その上、必ず嫌味つきだ。なんとか耐えられるのは、息子と一緒に朝ご飯を用意するときだけだ。〝クルマ〟をちょっと借りようものなら〝ガソリン満タン〟四千円強のタクシー並の経費がかかる。それでも我慢しているのは、必要な資料がどこからともなくでてきて、その一行が重要な自分の心象風景の稚拙な年齢を重ねて要ることを知らしめていることに、自分史小説と銘打ったなら、この恥部も避けていてはいけないのではないか、という、思いがあったからだ。四月二○日、昨夜途中で中継が切れた甲子園球場での東京ヤクルト四回戦は延長十二回に福留がこの日、二本目となる満塁サヨナラ本塁打を打ち七対三で勝っていることを今朝、ツイッターで知った。そういえば、三対○で負けていた六回か七回に橿原のイオンモールにあるTOHOシネマズで観た『リンカーン』の帰宅後、テレビをつけると、福留が打席に立っていた。カウント3ボールから、真ん中高めにマロンが投げた直球を完璧にとらえた。同点スリーランとなり、中継の茶屋町放送の解説の遠山と亀山努こと〝カメちゃん〟の組合せがイケイケどんどんになっていた。一は、ナイター中継の宣伝見るのがめんどうなので、そういうときは、BSや狗HKやBSのその他の中継に切り替える。なぜ、そういうことをするのかというと、これは四半世紀も関わったプロ野球後遺症ともいえる。だから、、パ・リーグの動きも当然のように見る。そこには客観的に見る一の習性があり、自分がこういう行為をすれば、どういう結果がでるのか、この検証をしていることにもなっている。もちろん、誰かれにこんなこといえば「あなた、CTスキャンでもMRIでも検査受けなさい!」といわれそうなので、そんなことはいわない。
 実際相模原病院で脳外科などに行き、頭のCTスキャンを受けたとき、結果もらいに行ったらどっから見てもあの栄光周平さんがいた。だけど、ご本人という確信もないから、
「どやねん?」といわれても一は答えようがなかった。
「異常なかったみたいですね」と普通に答えたのは、誰にも悟られない、ドン・キホーテとしての生き方の選択があったからだったが、その行動の結末はまだ予断を許さない状況である。しかし、吉野の暮らしは、田舎でもあるので、時間のスピードを田舎の時間割に合わすこおtができる。これは、しっかり大都会化しつつある相模原市では味わえない日々だ。
 実際は、映画行くにも、近鉄南大阪線の越部まで歩二○分。帰りは坂道を二五分かける。吉野口まで約二○分。JR和歌山線乗り換えで二○分。また、まほろば線に乗りひと駅。乗り換え接続のいい時間帯は、朝夕と午後の一、二本ぐらい、乗り継ぎの時間の長さは読書や居眠りに当てられる。切符の購入のやりが方に慣れないとか、あわてると、逆方向に乗りそうだったとか、という問題もあわてて乗る理由がないほど、多分上映時間は二時過ぎだろうと読んで、TOHOシネマズに着く前には、久しぶりのぜいたくとNumber愚定食までゆっくり食べる余裕があった。
ここまで記したところで、場面は過去に書き記した頁へなぜかフィードバックした。〝T・Sさんへの便り〟の「T・S」さんが誰に宛てたモノなのか、現物の手紙原文をこの〝白紙本〟に書き記したいきさつも、一はまったく思い出せないのだ。しかし、書く必然なく書くハズがない。このミッシングリンクをつなぐメモ出て来た。それは、毎朝朝日にのオピニオン73に投書しようとしたメモだった。(白紙頁前文2頁〜12頁)


T・Sさんへの便り

拝啓

 約一か月余りの北海道旅行もいまは、新日本海フェリーの退屈な航海に身を任すだけとなりました。
稚内であなたと出会ってからはや二十日にもなります。あの時、ボクは随分ひと恋しくなる感じに襲われていました。遠くででさえずる野鳥の鳴き声が細く高く鋭く響くのを聴くころには、ちょっと感傷的な気分になり、かもめの群れなす飛ぶ交うさまを見ると、す
っかりこころが寂しくなっていました。
 小学生の遠足の子らの姿を見てやすらぎを覚えたものだ。あなたは、その小学生数人に取り囲まれて何やら話をしながら、氷雪の門の斜めうしろで、眼下に広がる稚内の街、港を飽きることなく眺めていたね。
旅の楽しさを味わっていたのでしょうか。
灰色の空からは時々鈍い光がこぼれ、風速十メートルはあろうかと思われる風は、最北の地にふさわしい寒さを肌に吹きつけて行く稚内公園。
稚内は夏とはいえども寒くて、北国の旅情を満喫させてくれました。でも、本当はあなたとお話することができたからそういう気持ちになったのだと思います。
北海道への路、夜行列車の車中で読んだ『殺される側の論理』(毎朝新聞記者)の本は随分ボクを刺激しました。まったく自分のことだけでも、もてあまし、ごく当たり前のことがわからず、ただ何となく月日が経つにゆだねている生活に、少なからず動揺を与えました。
いままで新聞のどこを読んでいたのだろうと反省させられました。世界のあちこちで起きている事件が、まるで自分の生活圏とはまったくかけ離れた存在であるかのような錯覚――。夢を見ていたとしか言いようがありません。
そのことに気がついたことを由として、自分を慰めています。
できれば日高の牧場でアルバイトしたいと考えていましたが、結局は二、三日牧場を見学しただけでおじけづきました。ここでもボクは夢を見ていたようです。
ボクはは競馬(とくに中央競馬)が好きです。馬も好きです。そして、それがこうじて、日高で……などとすっかり増長していたのです。
 日高地方は、想像していた以上に素晴らしいところでした。とくに新冠(にいかっぷ)は長いアスファルトの一本道が川に並行してどこまでもつづき、山に突き当たるまでの数キロメートルがひと目で見渡せます。そして、その両側の草原がほとんど牧場になっています。
牧場では、仔馬の親子の姿を見かけます。普通サラブレッドの場合、お父さんよりもお母さんの愛情だけで育つので、その情景がとてもほほえましくて、印象的です。
仔馬の親子は飽きることなく黙々と草を喰んでいます。生後二、三か月の当才駒は、疲れると前肢をゆっくりと折りヒザマづいて後肢を前に折りながら、突然文字通りペタっと大地に横たわります。
緑の大地にです。
実に可愛い感動的な一瞬です。
ある仔馬はボクが近づくとわざわざ柵に寄って来て、くいいるような美しい瞳をボクに浴びせてきました。旅行者はもの珍しいのでしょうか。手を差し伸べてもひとなっつこいので逃げません。サラブレッドは純血種だから、初対面のひとにもなつくのだろう。
実に可愛い。どれもこれも。
青草が刈られているところはそうでもないのですが、大部分の牧草地は、遠くで眺めているよりずっと深くかがむと大地に身体が吸い込まれるような錯覚を起こすほどでした。
実は夏の陽光でまばゆく天の高さを虚しく見つめるとどこからともなっく、馬のいななきが耳に快い響きを投げかけます。
ボクはすっかり満足しました。
しかし、こんな思いができるのは馬をつくる苦労を知らない所為です、サラブレッドを生産する仕事はこんな呑気なことを言ってはおられない。たいへんきびしいものです。
朝日が昇らない三時ごろには起き、放牧の準備をします。それから草を刈ったり、厩舎を掃除したり、寝藁を干したりの単調な仕事が延々と続きます。ボクがアルバイトを諦めた理由は、ほとんどの牧場が機械化が進み、いちばん忙しい交配期が過ぎて、あとは八月の初旬に始まる二歳馬のセリ市を待つ季節なので、そんなに人手を欲していないという事情があったのと前述したような厳しい生活は明日のことがつい頭に浮かぶ不安になるようなボクにはダメだと思ったからです。
随分と意志薄弱なことになりましたが、変に意地を張ることやめにしました。
それでも競馬を楽しむには、何の不都合もないではないか。そう考えています。
ときには〝男は黙って潔く○○ビール〟でも飲んで、牧場で昼寝をするのもいいものさ。


 この手紙退屈なフェリーの二等船室で書いています。小樽から京都の舞鶴港まで三○時間。二十八日午後十時定刻三○ほど遅れて出港した〝鈴蘭丸〟は三○日午前六時に着く予定です。とき、二十九日十四時十三分前、やっと航路の半分。多分佐渡ヶ島沖に近づきつつあるようです。ロビーのテレビに新潟地方の高校野球予選が写っていたのそう推測しています。ともあれ、お腹が減ってきました。
 この変でちょっとペンを中断して、船の食堂に行きました。実は懐が大変乏しいのです。だから、最も安いカレーを食べました。
横で美味そうにビール飲みながら、カツや焼き肉などを食べている連中を尻目に。――五分ごどで胃袋へ到達したようです。
金が無くなるとみじめだ。この調子だと、ひょっとすると晩飯を抜かないと舞鶴から大阪の自宅まで帰れないかも知れない。でも最悪の場合の方法は残っています。キセルすることです。それにしても、昨夜小樽でうな丼を食べたコトは後悔しています。
すっかり懐中のことを忘れ、足が勝手に匂いに釣られて入ったとしかいいようがありません。
江戸前風にねじり鉢巻半纏姿の活きのいい兄ちゃんに「うなぎ、すし、どっち」と尋ねられたとき、勘定を確かめずに口からでる言葉は「うな丼」なんて心にもないことを言ってました。
勘定が気になるモノですから、落ち着けすわけがありません。1・5の視力を駆使して店内を見回して、八五○円也を見つけたときはすべて後の祭りでした。こんあ調子だったから正直言って美味しくはなかった。高きうなぎに怨めしさを覚えながら、肌なまめかしいうなぎの切り身が食道からひといきに胃へ貫きていくさまは、ボクのみ知る感触です。
そう、複雑でした。


〝奴〟はここで、なぜ、この手紙をこの白紙本に書いたのかを次に書くメモから思いだしたのだった。

新たに白紙本を充填する作業の通し番号13頁からだ。

《一九七三年八月二○日 オピニオン’73 軍国教育と私

ボクは昭和二二年生まれ、いわゆる「戦争を知らない子供達」がもっとも多く誕生した世代です。したがって戦争えおはどういうものかとというのは感覚的にはわかりません。 しかし、ベトナム戦争の事実のルぽなどを見ると、当時の軍国主義日本といまの日本が本質的には変わっていないことが理解できます。ボクがこのことをハッキリ理解できるのようになったのは『中国の旅』(朝日新聞)で、日本軍国主義侵略戦争の犠牲になった人たちの生の声を体験を知ったからです。
これほど強いショックを受けた本は、いままでなかったといっても過言ではありません。》


〝奴〟この頁をまず一頁だけ埋め実頁には落書きのように1975年「ウオーッ」の漫画の吹き出しを書いていた。そして、突然横書きで一九七五年の日記を二頁六日分書いている。

 
《1月9日(木)くもり後晴れ
宵戎の日、「新しい年が明けてからもう9日か」そんなため息が出る酷しいスタート。大阪ラセン管を何とかモノにしたい。明日、本戎。残り福もある。文字通り苦しい時の神頼みをするが。ボクの耐久力を試す正念場が訪れたということだろう。自分の運を信じようではないか。

1月12日(日) 晴れ
寒波の襲来で北陸地方をはじめ山陰方面は豪雪が降る、雪不足で悩んでいたスキー場もほっとひと息といったところだろう。タケガワさんの家へ夕方訪問。水炊きをごちそうになり、ブリッジなどで時間を過す。久しぶりに楽しかった。

1月13日(月)晴れ

相変わらず寒い。懐も、仕事も。運があるのかどうかずぅと競馬をしているようなものだ。

1月26日(日)晴れ
おだやかな久しぶりに温かい1日だった。朝10時頃起き、11時喫茶店でコーヒーを飲む。「虹」横丁のコーヒーショップである。どこへでかけてもすぐに金がかかるし、不景気なので、楽天的に外へ向けて行動する気にならない。あるから見てしまうそんなテレビを見る。あまり金のかからない熱中できる趣味をつくる必要がある。

3/4(火)
5時前に仕事を終えて、朝日映画ベストテン1位の「砂の器」をフェスティバルホールに見にゆく。前評判通りでの内容の濃い、いい映画だった。「宿命」を背負った犯人―作曲家の過去が事件の容疑報告とともに暴かれていく演出の盛り上がりは本当に素晴らしかった。

3/5(水)
可もなし不可もなし。母の愚痴が煩わしくてつい、自分まで小言を並べたててしまう。「ああいやだやだ〜〜」といつも思っているのだが……一度口に開くとタタミかけるように毎日同じことを言ってしまう。「なにブツブツしょうむないことをいうとんの」
「もちょっとしっかりしいなぁ!」
「うっとおしい」etc》

〝奴〟はいわゆるオイルショック以後、急激な不景気により、仕事が激減した。そのせいで過去のしごと先の大阪ラセン管という西淀川にある会社まで直で営業を試みるようになった。大阪ラセン管は〝奴〟がD愛社の企画部時代に新規開拓して、レコードのLP判サイズの会社案内を企画して採用され、退社前に袋井工場なども取材した、夜中に大阪に帰るとその足でミナミのスナック通いするという、ハードな日々を過ごし退社日を待つという時代だった。
 次の頁は太い中マジックの横書きで詩のように書いている。〝奴〟の一九七五年の時代の空気が心理が心模様が知り得たとしても誰れが関心を持つかは疑問ではある。

《若葉は、今ボクに何ももたらさない。――
ゆううつをさける唯一の方法は何も語らず、
めくらになってただ寝るおとだ。
そう、そうすればボクを苛立たせる悪魔はこの世にいない。
五月二十三日(木)晴れ
 夏服を着た。チェックのブレザーと紺のパンタロン。この季節にふさわしい明るい色調を自分に感じた。――だんだんと心がリラックスして軽くなるのが感じられた。この苦しい環境をより強い精神力で歩む勇気が湧いてきた。

碁を打った。相手は上手の年寄りだった。三回やって三回とも勝てなかったが、だいぶ勘が戻ってきた。この調子で打ち込む回数が増えればあんなじじいに負けるわかがない。
(註 現在〝奴〟自身があんなオジンになっている。)

4/21
中秋の名月を見たつぎの日、残暑が酷しくどこを見てもひと人の服装はもちろん、陽射しのきつさも夏そのものであった。
「思いのたけ」夕方そんな言葉が頭に浮かんできた。――猪名川霊園の仕事の納期が明日にせまってきて、やらなければならないのはわかっているのだが、全然思うように進まない。いや、進まないというより進めようとしていないといった方が現状を正しくとらえている言葉だろう。昨夜だってそうだ。弟に借金返して、そのお礼にビール少々と焼き肉を腹いっぱい喰ったら、事務所に戻ってひとりになるとトタンに眠気が襲ってきた。何も襲ったなどというおおげさにいうほどたいそうな様子ではないのだ。東側の窓の45度の角度には中秋の名月がおやっとおぼろになって浮き上がっていた。――別に名月を見たからって頭が聡明にすぐなるものではない。仕方ないからフランスベッドのソファに中の字になって眠りを眠ることにした。この眠りを眠るという表現は大江健三郎のエッセイの中に何度もでてきたので一回何かの拍子に使ってみたいと思っていたのだ。それを今、この日記に書いてみる。何々いい言葉に感じる。そう昨夜、焼肉を喰ってから眠るにあたってボクはラジオをかけていた。たしか阪神対巨人の中継だった。野球といえば今日は近鉄が優勝をかけて阪急とやったので西宮球場が久しぶりに二万人の観衆があつまったそうだ。この試合、阪急山口高志が一○四球投げ、荒れ球ながら要所をがっちり押さ、三振十一を奪う三度目の完投勝利をものにしていた。一方、広島のデーゲームがこれまた赤ヘルの底力をまざまざと示していた試合だった。その時NHKラジオの相撲中継の合間合間に速報が伝えられていたのだが、逆転二転三転の末、八回山本浩二の逆転ホームランが決勝点となって、広島がヤクルトに4対3で快勝。これで一引分けを含んで六連勝を果たした。それにしてもことしの赤ヘルは強いや! ところで阪神対巨人だが後楽園は今日も五万人の観衆が入ったそうな。
 あんまり関心がなかった。眠っていたぐらいだから、そやけど巨人ななかどうでもいいんやから、まあ! 阪神さんが負けんようにがんばってくれやとは思っていた。このソファもともとベッドでソファにしているものだから背にさえぎられて伸ばすことができない。それで仕方なくいつも腕を頭のうしろに敷くがだらりとさりげなく両腕をたらすことになり〝中の字〟か小の字の状態でしか眠れないのだ。
 小一時間を眠ったあと時計は八時四○分ぐらいだったろうか。問題のいろいろ余録のある西側の窓からうるさいので下の方をのぞいてみた。ガス工事かなんかでガーガー、ギリギリとうるさいのも仕事のやる気を失くす原因だったのだ。が、まあそれはしょうないとしても寝間着姿のオッサンが三階のわが部屋を灯火を見上げていたので、直感的に、何度か階下降りてわかったのだが、そのオッサンは家主さんだった。小男の田舎の田吾作風のそのオッサンは鍵の束をジャラジャラいわしながら、待ち構えている風だった。それで仕方なしにさっさと退散した。日曜日に出勤していいかどうかを問うたら、やんわりと断られた。なんでも奥さんがボクが仕事を始めてから入院したとかで奥さんがいれば「あんたの要望に応えられますんけど……」どっちにしてもマンション違うからしょうないことやけど。》

 これだけの空白のある日記に〝奴〟の1975年という時間が空間がどのように支配されていたのかを垣間見れるのだが、それは多くのひとの人生がいわゆる日常の埋没なのだから、平凡な元コピーライターがいつも失恋して、母との付き合いに疲れて、それでも競馬で小遣い稼いだり、競艇のビギナーラックで稼いだりすったりしながらも生きて来た、それは自分史に時代の背景を彩り作業に結果としてなればいい、というささやかな願いでもあり、〝奴〟の「好きなひととだけときに語りたい」という思いのわがままぶりはが如実に顕れてきた、その後の人生につながっている。そして、〝奴〟自身が気付きもしなかった、空白の頁を埋まる作業がなぜか、詩的に描かれてていたのだ。なんという偶然の必然、〝奴〟は自分のちいささにがくぜんとするが、存外に生きるとはそういうことではないか。偉人は異人さんに連れたれても生きるが、凡人は天才肌とは無縁墓地だ。

(この後 〝奴〟はその後の30年何も変わっていない凡人ぶりに邂逅する。)
あとは発表しません。〝奴〟と市川寛子モデルの部我路奈の『二人の世界』だ。

3年半前の記憶シリーズその4 期日前投票の不愉快!! 最高裁判所裁判官国民審査

一昨日、オレのアパートにも「投票所入場整理券」が届いた。期日前投票をして、後はのんびりと重点区の支援者の演説会場散歩でもしようという魂胆だ。しかし、3年半前のこともある。最高裁判所裁判官国民審査期日前投票日のズレがあることだ。実に悩ましい。一度に済ませられるのは投票日の一週間前だってね。国の作為が見えて実に嫌らしい。とまれ、今度は最高裁判所裁判官に全員✕つけるぞ!! 三権分立の確立のために。
それにしても、自民党や日本維新や公明党民主党増税隠しや脱原発隠しやみんなの党新自由主義補完の「小さな政府」論は、沖縄の普天間基地移設やオスプレイ厚木基地拠点配備や、北朝鮮ミサイル対策のPAC3配備や緊急サイレン装置のニュースなど、いまさらながら、選挙前のマスゴミ報道ご用心色満開だ。やれ、やれ!!

オレの癒しは桜流し


衆議院選挙期日前、投票の不可解? 最高裁判所裁判官国民審査は23日から・・・。
公示日の翌日、わたしは行きなれた相模原市の分室に行き、そこで期日前投票もし、個人的用件を一度で済ますつもりだった。しかし、投票所入場整理券の封の中身を確かめると、地域によって、期日前投票が24日からとなっている。早く済ませたいわたしは、19日からできるという南合同庁舎に20日に行った。腰の治療とシップを貰い、暑い中一気にガス代の未払いの問題など細かい個人的事情を済ませて、速やかに投票をすませ、今度の衆議院議員選挙の現場をいろいろ見たいと思っていたからだ。特定政党には本来肩入れはしたことがない。ノンポリだ。しかし、反自民は一貫していた。しかも政権に深くかかわるようになった自公つまり、公明党にはうんざりしていた。つまり、坂口厚生大臣や冬芝国土交通相や、最近では斎藤環境大臣などは、自分たちのやってきたことに何の反省や総括もなく、「暮らしを守る公明党」などとアピールし
、しかも自分たちの政策の矛盾を追及されると貝になり、なかったことのように言ってきた。


今度ばかりは、この〇〇〇=公明党は批判され、野党になり、身の丈にあった貧乏人を組織して、お布施で還元するような政教一致憲法違反であることを訴えなければならない時期がきている。その例として、分かりやすい形で幸福の科学幸福実現党などを結成してくれたお陰で、オウム真理教の二の舞を起こしてはならないことがわかり、市民、国民にとっては喜ばしい総選挙のチャンスがようやくきたのだ。事実上、任期満了選挙が?

ところがだ。期日前投票に張り切って行って驚いたね。小選挙区比例区と終り、さて、最高裁判所裁判官国民審査票を貰おうと思ったら、なかった。選挙事業者の方に早速聞くと、理由がよくわからない。それで封書の中の投票所入場整理券を確かめると、裏に小さな字で「8月22日(土)まで最高裁判所裁判官期日前投票はできません」の文字が下線を引き赤字で印刷されていた。期日前投票の時期は投票区によっても時期が異なるなど、理解しがたいことになっていた。

ラ・ターシュに魅せられて様
http://latache1992.blog56.fc2.com/blog-date-20090804.html総選挙! 「政権交代」 だけではもったいない 涌井と那須バツ攻撃を!

kimekime25様
風は吹かせよう!明日を信じて!+ 国民審査Ver.1http://blog.goo.ne.jp/kimera25/e/83e19323a934f26fd07b6915533b9577

8月投票と一緒に最高裁裁判員の国民審査が

実施される。
(横浜は投げだし中田による市長選もある)

そこで対象裁判官を紹介

 ◇国民審査を受ける最高裁の裁判官
  氏名  年齢  任命年月  出身

①  桜井龍子  62  08年9月  行政官

②  竹内行夫  66  08年10月  行政官

③  涌井紀夫  67  06年10月  裁判官

④  田原睦夫  66  06年11月  弁護士

⑤  金築誠志  64  09年1月  裁判官

⑥  那須弘平  67  06年5月  弁護士

⑦  ◎竹崎博允  65  08年11月  裁判官

⑧  近藤崇晴  65  07年5月  裁判官

⑨  宮川光治  67  08年9月  弁護士   

(◎は長官)
<審判方法>
賛成は無印  反対のみ「×」 ・・・・他の記入は無効になる

桜井龍子について・・・各自に任す
  御殿場事件・・・えん罪という疑いが残る!
  労働省では旧育児休業法制定に関わった。
  「フィブリノゲン」納入先を厚労省にせまった。
   ※ 役人時代は良かったが・・・。kimeraは「×」

② 竹内行夫について・・・「×」
   外務省のドン。田中均天木直人を首にしたやつ。
  自己責任という名でイラク日本人捕虜を切り捨てた事務次官
  裁判官というより国家主義的な考えが全てに優先?

③ 涌井紀夫について ・・・現段階では「?」
   判断材料が乏しい。仕事は合議判断のみ。
この人はどうだというのはもう少し情報収集時間を下さい。

④ 田原睦夫について・・・現段階では「?」
弁護士時代は◎。
音楽教師の君が代伴奏事例では判決に合法の判断。

金築誠志について・・・判断不可→無印
なったばかりで重要判決にからんでいない。

那須弘平について・・・「×」
君が代判決で全体の統一性と強引に主張。

竹崎博允について・・・「×」
裁判員制度推進者。kimeraはこの制度に反対しています。

近藤崇晴について・・・「×」
高裁時代損害賠償の性差別問題で高校までは平等の判決!
   植草収監はこいつの判決!

※ この連中については

  もう少し調べてみます。後日再UPをしましょう。
http://blog.goo.ne.jp/kimera25日常からの改革を。「狂育」をつくったのは責任をとらない自民党

わたしは、頭にきた。今度の選挙ほど選挙権を得て42年の中で歴史的に国民=市民が変えたという選挙結果、「政権交代」はいわゆる55年体制以後はなかったといっていいのではないか。確かに細川政権があったとはいえ、これは自民党主体のコップの中の嵐風味の新党ブームであり、国民の意識として、「政権交代」をしたという実感はない。また、自社政権はその後、社会党が解体され、細かいいきさつはともかく、現在の民主党が野党第一政党に落ち着いた。

その期日前投票が同じ日にできない。その会場に投票に来た人たちでわたしのように疑問を言うひとは誰もいない。わたしだけがこだわっている。係りの人の結論は
最高裁判所裁判官国民審査法にもとづき、投票日8月30日の七日前からの投票」という結論だった。だけどね、だれも投票に来て疑問を持たないのおかしくねぇ。

知らしたいないのかとしか思えないのだ。どこにもそのことがわかる表示はない。意識して2度足を運ぶのは、どう考えても不合理だ。係りの方にわたしは自分の意見、つまりそれなら、そのことを大きく入り口や投票所内部にも知らせ、国民の大きな権利である、「最高裁判所裁判官国民審査」の投票をよびかけるべきではないか、と、意見を述べた。

国というのはかかる調子で国民をなめている。重要なことを知らせない。

オレの愛するシンガー・ソングライターが、
「テレビ消して、私のことだけを見ていてよ・・・」と歌い、
「新聞なんていらない。大事かんじんなこと載ってない」と歌うはずだと、

冗談のひとつも書いておかないと、おさまらないのだった。

政権交代待望論の天木氏が新規購読1位獲得 (メルマガまぐまぐ)という天木直人氏もつい最近のブログで、http://www.amakiblog.com/archives/2009/08/18/#001455

今度の選挙は、はじめて国民の一票で自民党永久政権を権力の座から引きずり下ろすことができるかどうかの選挙である。

 日本の戦後史を少しでも知る者であれば、これがどれほど画期的な事かわかるだろう。

 国民の一票で権力者をすげ替える。これは大げさに言えば日本が初めて経験する民主革命と呼べるほどだ。

 しかし今度の総選挙では、政権交代よりももっと革命的な事が我々の投じる一票で起きるかもしれないのだ。

 それが衆院選挙の時に同時に行われる最高裁判所判事の国民審査である。

 今回の国民審査では憲法成立以来はじめて最高裁判事が信任拒否されるかもしれない。

 最高裁判事の任命人事は国民の手の届かないところで、政府と司法官僚によって決められてきた。

 そうして決められたこの国の最高裁判事は、この国の司法をほしいままにし、国民生活に多大な影響を与えてきた。

 その最高裁判事の任免権限は、憲法によって最終的には国民の手にゆだねられてきたというのに、これまで国民はただの一度もそれを活用してこなかった。

 それは無理もない。

 一つには自分の一票でどうなるものでもないというあきらめがあった。

 もう一つは最高裁判事についての情報不足があった。

 どういう人物かろくに知らないで、どうして最高裁判事を審査できるのかという自信のなさが、我々を消極的な信任投票に向かわせていた。

 ところが今回の国民審査に限ってはこの二つが見事にクリアされた。

 たとえば外務省から天下りした元外務事務次官竹内行夫判事である。

 彼は外務事務次官の当時、米国のイラク攻撃を支持し、自衛隊イラク派遣に派遣した責任者だ。

 その自衛隊イラク派遣を名古屋高裁は昨年4月違憲であると断じた。

 憲法を破った人物が「法の番人」となるなどということが認められていいはずがない。

 もう一人、最高裁長官である竹崎博允判事である。

 かれは昨年11月、あの裁判員制度を成功させるために最高裁長官に抜擢されたと報じられた司法官僚だ。

 すでに裁判員制度の開始で明らかになったように、裁判員制度は国民の意思を無視した平時の徴兵制ともいうべき悪しき制度である。

 早晩廃止されなければならない制度である。

 その制度をつくった張本人の一人であり、その制度を強引に定着させようとする人物を、最高裁長官にとどめておいていいのか。

 イラク戦争に反対した国民や、裁判員制度に反対する国民にとって、これほどわかりやすい判断基準はない。

 しかもそれらに反対する国民はどんどんと増えつつある。この二人に不信任の一票を投じようと呼び掛ける運動が全国で広がりつつある。

 ひょっとしてあなたの一票が彼らの否認を決定づけることになるかも知れないのだ。

 これほど意味のある一票はない。これほど直接的に自らの一票が結果に結びつくことはない。

 今度の総選挙で、どの政党、どの候補者へ一票を投じるよりも、はるかに重要な事がある、と私が強調する理由がそこにある。