「自分の流儀」つまり「オレ竜」(落合監督・中日ドラコンズ)の采配と野球の偏向報道!とちょっとS


オレは、子供のときから、人の都合より自分の都合を優先するクセが身についていた。だから、弟のように誰からも気軽に話しかけられて好かれる(いい意味では)、悪い意味では相手から半分馬鹿にされている(知性がない。勉強きらい。しんどいこときらい。寝小便する)ことも多かったが、にくらべてオレは幼いときはともかく(年の離れた従兄妹の姉さんに可愛がられた)、扱いにくい子供だったと思う。マジメに、事件を起こす。要領悪いから、その事件の主犯格ではないのに、連帯責任で痛い目にあう。損か得かという基準で見れば損したことの方が多かったかもしれないけれども、オレは自分の意思(意志)でやったことには、結果をすべていい方に受け入れるように努めてきた。

たとえば、小学校4年生のときに、ボタン事件が発生した。悪友たちと徒党を組むも、自分の立場はいつも、その埒外すれすれのポジションにいたときに、ある町工場のボタンを集めることがクラスで流行した。もちろん、そのボタンは加工中の商品であり、それを、ルーズ管理されていた置き場(倉庫というほど立派でなかった記憶)から、だれがうまく掠めるかというゲーム感覚の遊びになり、やがて、高級ボタンにはさまざまな加工や装飾が施されていることを知ることになり、高級ボタンをどう掠め取るかを自慢しあう雰囲気になってきた。

もちろん、優等生という連中は参加していない。しかし、中ぐらいの典型のオレのようなタイプはなぜか、そのグループの末席に位置していた。リーダーシップなどない。オレのこのころの長屋にいた近所の親分はすでに中学を出て働きに出ており、夜間工業高校に通っていた。その親分の命令なら、池に潜って貝を採って来いといわれたら、目性が悪いのに、やってしまう無鉄砲さが、オレにはあった。

つまり、年上の親分がいて、学校では、常にひとりというのが、(友だちはいても親友という感じではない)オレの立ち位置だったのだ。

ボタン事件に戻ろう。ボタン集め作戦会議はもちろん、放課後の運動場や校舎の片隅で行われた。ボタン町工場は、H小学校から10分圏内。真昼間はすぐにつかまる。近所にT警察署が鎮座しているのだから、いま考えたら、何と無謀な「禁じられた遊び」だったことだろう。

ある日、仲間のひとりがかかえきれないぐらいの量を一度に掠め取ろうとして、見張っていた工場主に追いかけられ、道路にボタンをぶちまけて捕まった。オレはそのとき、「アホな奴やな!」と思いながらも、知らん顔してさっさと自宅に帰り、ひとり夕食を食っていた。白黒テレビがやっと普及しだした時代だった。

「〇〇くん!」とただならぬ雰囲気で、仲間のひとりがオレの自宅をたずねてきた。警察官も一緒だった。その友というか、仲間は、さっさと自宅に帰り、捕まった自分の仲間の主犯はオレだと自供したのだ。結論からいえば、オレは主犯じゃない、オレもボタン捕獲作戦には参戦したが、いつも「オレの流儀」でやった。仲間とかち合ったときは、オレは絶対に掠め取り(早い話、盗むこと)には手をださなかった。グループには入っているが、常に単独の方が、相手は警戒していないし、顔も覚えられないという利点があったからだ。ところが普通の級友たちは、何人かで行動した。利点は見張り役、足の速い掠め取り役、工場付近で遊び、注意をそらせる役など、分担作業をできるメリットがあるが、当然、売り物の加工原料というか材料の型抜きしたボタンを掠め取られた工場主も、大量に減るとなると、警戒心は強まる。

オレは単独だから、量は掠めない。「質」つまり、めずらしいモノを狙った、だから、そんなものひとつやふたつ狙っても、棚卸(この当時はもちろんそんな言葉しらなかった)。しない限り、誤差の範囲だから工場主は気にも止めなかった。そして、仲間内のボタンマーケットで出す、オレの出すボタンは仲間の嫉妬をかったらしい。どうして、こんな品物、入手したのかを、みんなが聞きたがった。もちろん、「禁じられた遊び」だから、簡単に手口は教えられない。単独で行動した成果だし、自分の知恵を試され、単独ゆえに、すべて自己責任(いま、流行の言葉でいうなら…)ということになった。

オレの流儀は実は単純だった。最初はボタンを掠め取るというだけだったが、それの交換だけでは飽きてくる。徒党を組む連中は量を自慢にマーケットを展開したが、オレは単純にボタンの種類の多さに関心を持ち、結果「質」を追求するには、その工場にはどんな種類のボタンがあるのかを、まず調べ、その次にその種類のボタンはどの棚の箱にあるかを頭の中に入れ、量は絶対求めないという、自分のルールを決めていた。それだけだ。

いまはともかく、団塊世代の50年前など東京オリンピック誘致が決まり、ミッチーブームが起こり、遊びは工夫次第で無限にあった。そのひとつが、ボタン事件だっただけだ。路地に少し入れば、町工場の削りカスの雲母がキラキラとあやしげに輝き、その雲母がどんな加工をした結果のカスだったのかも知るよしもなかった。ただ、その輝きを踏みしめて路地に入り、迷宮の楽しさを味わうことができたことは確かだった。磁石の原理は親分に指示されて、U字磁石で鉄くずを集めることで、教わったようなものだ。「10円」の小遣いを集めるのに、智恵をつかわなくてはならない、時代の名残がまだ強くあった。

ところで、ボタン事件の結末は補導という、お灸をすえられ、「親も呼び出され」て、何人かが痛い目を見て、終わった。オレはそのときに、「〇〇くんもやった。〇〇くんもやった」という気はなかった。大人は一見マジメに見えたオレにお灸をすえることで、ボタン事件の解決をはかったのを感じたからだった。ま、T警察には借りもあった。小学校3年のときには、中古の自転車を買ってもらい、いきようようと小学校から西へ向かって走り出し、T警察の横の広い道路をへ出たところで、バタコ(貨物三輪自動車)にはねられ、奇跡的に打撲だけで助かった。そのときに助けてくれたのは、すぐ横にあったT警察の署員だった。

当時、白黒テレビを買うお金もちの家にMという級友がいた。テレビで野球中継を見せてやるというのだ。何人かの級友が招待された。二階の居間にあるというテレビは図体の割りに画面が小さく(オレは針中野温泉の大きな画面のテレビを知っていた。まだ、その当時はめったにそこまで風呂に行くことはなく、近所のS湯やK湯だった)

Mの居間には高級置物のようにテレビが置かれ、高級家具が配置されており、そこにMの家族たちが椅子にすわり、招待されたオレたちは、紅茶を出され、後にそれが野坂昭如氏により、アメリカひじきと呼ばれたことなど知るよしもない時代、テレビの画面は巨人、阪神戦で(オレは当時のタイガースが大阪タイガースだったことなど知らなかった)だから、この阪神戦がタイガース戦か大阪戦が正しいのかは、資料を手元に持たないので、知らない。

ただ、覚えているのは藤田元司という投手の名前だけが鮮明に記憶に残っている。それは仁丹ガムの野球小カードによって、衆木・もろき(現ロッテ)という小学校では習わない字を覚えた記憶とリンクする。
そう、当時からプロ野球偏向報道はNテレビ局を中心仕組まれていたとうことを、最近改めて感じたことをいいたいのだ。

ところでプロ野球偏向報道ですけどね。「オレ竜(流)」の落合監督がWBCに選手を出さなかったとかで、随分と批判され、結果としてイチローの奇跡的活躍でWBC連覇に終わり、世の中、WBC報道が行われた折に、野球中継を見ない者は非国民扱いされたような雰囲気だった。が、そのさなかに与党、自公内閣は何をしたかが問題だ。

また、マスコミは何をしたか? 

3月3日の小沢秘書逮捕、小沢おろしマスコミ組曲大合唱、小泉・竹中の売国批判の矛先を野球や検察リークの報道にあけくれた。国会では、本予算はもちろん、つぎつぎに不可解な法律案が可決され、本日まさに13日に世紀の愚作の補正予算国民の選択選挙を受けずに、麻生内閣衆議院で可決するという。愚民化政策の成果?
ここに極まれリ、ということですな。

ところで、「オレ竜(流)」落合博満監督の魅力は生き方そのものが「オレ竜(流)」を貫き、プロ野球界の常識や権威に反抗し、有言実行したその行動力は、大学の体育会系の理不尽になじめずに中退。一度はプロボウラーをめざした腕前だったが、社会人野球の東芝府中で頭角を現し、遅い入団。当時の400勝投手監督やシュート打ち名人の打撃コーチに、クソミソにいわれ、二年目の後期に15本塁打してようやく、一軍に定着。

当時の常識にとらわれない、選手時代の「オレ竜(流)」監督は、目立たない先輩のフォームに着目して、独自の打撃フォームを考案、その構えは大きく左足を開き、投手に身体を正対するように構えたバットは身体の前に位置してから指導するという、見たこともないフォームだった。「神主打法」と命名され不人気球団のロッテオリオンズに落合という選手がいることを知ったオレは、どういうわけか、のちに某球団のPR誌の編集に携わることになり、「オチアイ」の名が脳に刻みこまれて、常に発言に注目した。

オレ竜(流)」監督の流儀はその後、三度の三冠王に加えて、専門家の誰もが不可能と思っていた常識を覆し2000本安打を達成し、宣言通りに、打者の勲章に与えられる名球界という利権集団に入ることを拒否し、500本塁打、1500打点など記録は両リーグに渡り、また、選手会長として選手の権利意識向上に努め、自ら交換トレードやフリーエージェント選手として、ドラゴンズからジャイアンツに移籍、「オレ竜(流)」を貫き、有言実行、言論一致の成績で有無を言わせない、金字塔を立てた。


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タイトル・表彰・記録

タイトル

* MVP:2回(1982年、1985年)※優勝チーム以外から2度以上の選出は王貞治(1964年、1974年)に続いて2人目。
* 三冠王:3回(1982年、1985年、1986年)※史上最多。
* 首位打者:5回(1981年 - 1983年、1985年、1986年)
* 本塁打王:5回(1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)※両リーグ本塁打王は史上初。
* 打点王:5回(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)※両リーグ打点王は史上初、現在も唯一。
* 最多勝利打点:3回(1982年、1985年、1988年)
* 最高出塁率:7回(1982年、1985年 - 1988年、1990年、1991年)
* ベストナイン:10回(1981年、1982年=二塁手 1983年、1988年、1990年、1991年=一塁手 1984年 - 1986年、1989年=三塁手

表彰

* 月間MVP:6回(1985年9月、1986年5月、1988年8月、1989年8月、1990年5月、1991年8月)
* IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(1991年)
* 優秀JCB・MEP賞:1回(1990年)
* オールスターMVP:2回(1983年第3戦、1995年第1戦)

記録

* シーズン打率:.367(1985年)※右打者歴代3位。
* シーズン本塁打:52(1985年)※右打者の日本人歴代最多タイ記録。
* シーズン打点:146(1985年)※パ・リーグ記録。
* シーズン長打率:.763(1985年)※パ・リーグ記録。
* シーズン得点:118(1985年)※右打者のパ・リーグ記録。
* シーズン塁打:351(1985年)※右打者のパ・リーグ記録。
* シーズン得点圏打率:.492(1985年)※日本記録
* シーズン出塁率:.487(1986年)※パ・リーグ記録。
* シーズン打率3割以上:11回(1981年 - 1987年、1989年、1991年、1995年、1996年)※歴代5位タイ。
* シーズン打率.360以上:2回(1985年、1986年)※日本タイ記録、右打者では史上唯一。
* シーズン50本塁打以上:2回(1985年、1986年)※歴代2位タイ。
* シーズン30本塁打以上:9回(1981年、1982年、1984年 - 1986年、1988年 - 1991年)※歴代3位タイ。
* 17年連続シーズン100安打以上(1981年 - 1997年)※歴代4位タイ。
* 2年連続シーズン50本塁打以上(1985年 - 1986年)※史上初。
* 両リーグ1000本安打以上(パ1239本、セ1132本)※史上2人目。
* 両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本)※史上唯一。
* 1試合6四球(1991年10月13日)※日本記録
* 5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 10月14日)
* 通算打率:.3108(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代最高打率、5000打数以上では右打者最高打率。
* 通算長打率:.564(1979年 - 1998年)※右打者歴代1位。
* 通算350本塁打到達スピード:1257試合(1990年5月8日)※史上最速記録。
* 通算1000打点到達スピード:1284試合(1990年6月12日)※史上最速記録。
* オールスター出場:15回(1981年 - 1991年、1993年、1995年 - 1997年)
* オールスター通算打率:.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ。
* オールスター通算本塁打:11本 ※歴代4位。
* オールスター通算打点:27 ※歴代3位タイ。

* 初出場 1979年5月29日南海戦(川崎)※代打
* 初安打 1979年5月30日南海戦(川崎) 森口益光から
* 初本塁打・初打点 1979年5月31日南海戦(川崎) 山内新一から
* 1000本安打 1987年6月2日大洋戦(ナゴヤ) 高橋一彦から本塁打
* 1500本安打 1990年9月5日巨人戦(東京ドーム) 桑田真澄から本塁打
* 2000本安打 1995年4月15日阪神戦(甲子園) 久保康生から本塁打
ウィキぺディアより<<


オレ竜(流)」監督は、監督を引き受けた年にチーム優勝、以後1度の優勝一昨年には、2位でリーグ優勝を逃したものの、CSシリーズを勝ち上がり、日本シリーズを制覇、悲願のドラゴンズ日本一の栄冠を獲得した。

昨年の最終戦でファンに挨拶した姿は感動的だった。プロ野球が大衆のモノであることをファンのモノであることを訴える誠意に貫かれていた。結果批判(3位CS敗退)については、一切いいわけしない姿勢は、「オレ竜(流)」隠れファンとしては、その結果に対する潔さに、辞任しないでほしい、と願った。この辺はF某大臣の辞任投げ出しとは根本が違う、政界の摩訶不思議あらゆる力学でマスメディアを動かし、愚民化政策を続ける。そこにプロ野球という出自の確かさの精神は形骸化され、『野球とその害毒』(宮武骸骨)をたれ流すなどといったら、オレの『持丸長者』作戦はまちがいなくふっとび、ヒッキーに

「蹴っ飛ばせー!」と

いわれることを、ありがたく受け入れたい(願望)。


とき、’92年、某T球団に亀山&新庄という未曾有の若者が登場した。N監督はエーリート監督として二軍から鍛えられ満を持して引き受けたものの低迷さけられず、苦戦を強いられていたが、この二人の若者の大胆登用(ケガの巧妙もあり)によって、特に新庄剛志は、球界の常識をすべて覆す行動に終始した。そのプレーは派手で、歌舞伎でいうケレンの極致、スーパーな守備で極限の補球(山崎の左中間ライナー捕球)をしたかと思えば、当時の大エースの大野(広島)のパームボールサヨナラ本塁打して、当時常勝軍団を作りつつあった野村監督(現楽天)をして、「あいつは、わからん」とのちに某T球団監督に就任したときには、新庄剛志に投手までさせた。

新庄剛志は見るもののファンの期待に劇的に応え、劇的に裏切った。
日本ハム日本一を置き土産に宣言通り引退し、タレント新庄剛志として、テレビに登場したかと思うと、今度は事業家、プロデュサー新庄剛志を少し見せ、再び、マスコミの陰で着々と何かをたくらんでいるらしい。

オレ流好きの新庄剛志はその行為でもってまちがいなく、プロであり、今後も転進しつづけプロであろうとする。密教新庄剛志がいまの仮の姿なのか、どうか、顕教新庄剛志になったときに、どういう姿を見せてくれるのかを、オレは彼の出現で生き延びたという縁あり、その登場のときまで生きていられるかどうかわからなけれども楽しみにしている。

さて、’95年野茂さんの竜巻旋風のの帰結として、野茂さんが大リーグに行くことになった経緯は今回の記事の趣旨ではないが、野茂さんという、冒険家、プロ野球界の革命家がいなければ、現在のメジャーリーグイチローゴジラ松井リトル松井、松坂の出現はなかったことだけは確かだ。

とき、日本ではバブル去り、某T球団は創設60周年の記念年、野茂さんは、団野村氏の代理者を得て、強引にメジャー移籍を強行した。当時のマスコミのパッシングのすさまじさは、

「右左いっ、倣え!」

の号令に呼応した。バファローズ球団の社長が任意引退を告げ、日本での事実上のプレーの道は断たれた。メジャー契約の代理人として団野村氏が奔走して、ドジャースとのマイナー契約を勝ち得た。

日米貿易摩擦アメリカの年次改革要望書の中にも吹き荒れていたなど、オレはそこまで知らなかった、ただ、知ったのは、野茂さんがヒデオ・ノモブームを巻き起こしたら、今度はあれだけ批判したマスコミが野茂さんにごまするように

「メジャー野茂に倣え!」と宗旨替えしたことと、

日米貿易摩擦の象徴のひとつとして、逆輸入車キャバリエが、アメリカ国家への服従を促すようにトルネードヒデオ・ノモの背景に燦然と輝き、日本の失われた10年の半ば、メジャーブームに沸くマスコミが重要なことを国民に知らさなかったこと多々あることを、後に知ることになり、オレは焦って、慎重に運用すべきわずかな生命保険や預貯金を結果として、塩漬け、プラス、なしくづしにくづし、株式投資の結果運用を自己責任と教え込まれ、アナリストたちの陰謀、企みに乗せられた反省をいま、改めて感じる日々、今度のような乱暴な補正予算が通るなら、国家からその金をどう掠め取り、『持丸長者』になるかを考える戦略にシフトすることに、なんらやましいことはない。

オレがなぜ新庄剛志氏を高く評価するかというと、彼は世間の常識をことごとく覆した。メジャーで通用するはずがないといわれれば、あえてメジャーに挑戦し日本プロ野球出身者として松井より先に四番を打つ(確かメッツ)。そのファッションは入団時からベルサーチなどを着こなし、欲しいと思えば簡単にスーパーカーランボールギニーのカウンタックだったかを購入し、ファンの度肝を抜く。ミスター・タイガースの掛布さんでも、苦労して手にしたフェラーリクラスのスーパーカーをドラフト5位で入団した選手が三年目のオフには買ってしまう。

当時の某T球団は、亀山新庄のグッズで大もうけしたが、CMを解禁せずに、マスコミ対策に大きく遅れをとった。つまり、うたかたの’92年は蜃気楼のようにまぼろしのカーテンコールの闇にうつろい、球団創設60周年には、トルネード旋風に日本野球はかすみ、かろうじてイチローの出現でオリックスが「がんばろう神戸」の合言葉に呼応して、1月17日の阪神淡路大地震の爪あと、に少しの涼風を呼び込み、先の見えない某T球団はダブルの悲劇で低迷した。
同時に、オレの肉体はボロボロになり、血糖値は極限を越えていたのを、さらに暴飲暴食の愚で、おろかにも健康をすり減らした。翌年2月に入院。

イチローの独自性はいまさらいうまでもない。オレの体験でいえば、入団2年目の西京極、イチローは二軍で30試合ぐらいの連続安打をしていた。しかし、あの不思議な打法で、フリーバッティングすれば、軽々とフェンス越えするし、実際の試合になれば、二軍投手など見下ろす感じで簡単にヒットする。ひとたび守れば、捕球はもちろん、肩が強い、しかも、コントロールできる。盗塁すれば、ほとんどミスはない。

「なんで二軍にいるのだろう?」

その疑問が強烈な選手だった。オレの常識にないフォーム(ふりこ打法)という点では野茂さんと同じ。強烈過ぎた。野茂さんについては、書きたいことはたくさんあるので、興味がでれば、書きます。

仰木監督の就任を待って、ハワイのウインター・リーグで大活躍、翌年から以後、前人未到の領域を続けていることは、いまさらいうまでもない。イチローは宇宙へ飛天し続ける。常識のかなたに彼の哲学があり、彼の語録は、常に凡人の埒外にある。WBCの決勝戦ダルビッシュが同点され、一打サヨナラの最高の場面ですべての前半の不振の屈辱をお釣りをつけて名誉挽回してしまい、彼の語録は野球聖書か野球哲学として、研究材料になっていく。いや、なった。張本氏の記録をあっさりご本人の前で抜き去り、新記録は満塁本塁打。ありえないストーリを描いて見せる。
彼はサムライどころか、どこへ行こうとしているのか。何者なのか。野球アスリートであることだけは確かだ。

ゴジラ松井はパワーヒッター代表として、ヤンキースに活躍の場を得、怪物松坂は「松坂世代」の牽引者として、野球を楽しく見せるプロである。マウンドでは、ストイックに表情を変えず、ひとたび勝利すれば、その笑顔で満天の星を頭上に描いて見せる。つまり、スターの要素すべて持つ。某局の美人アナを射とめ、彼が「妻」や「ちびたち」などという言葉を発するギャップにファンは安堵する。スターはレジェンドを作るべきだという、ファンの真っ当な思いを、松坂ほどみごとに演じて見せるスターはいない。オレが楽しく野球娯楽を見せる松坂に拍手喝さいし、思い入れしたのは、すべからく、由来、前述にある。もちろん前提としての高校野球の伝説があればこそだ。

さぁ、そこで、ダルビッシュ世代は順風満帆と活躍しているが、3年目はどうか?
つまり、ハンカチ・マー君世代だ。

いま、注目はハンカチ・マー君ではない。マー君は4連続完投1失点という好成績で、野村監督の期待に応え、ハンカチ斎藤佑は六大学新チームのむづかしさの中で奮闘している。

で、某G球団のSだ。書いてしまえばいいけれども、実物をこの目で確かめたことないので、テレビだけでは、結果は出ているけれども、これでいいの、というのが正直な感想だ。まず、オレが昨年感じたのは、G球団はエースと四番と抑えを同一リーグから補強した。これって、新自由主義のもっとも、共同体破壊の現象でしょう。これで勝てなかったら、切腹もんだで。もちろん比喩ですがね。

で、タイガースが独走した。しかし、オリンピックがあった。あとは、書かない。誰が得したか。ということですな。「オレ竜(流)」監督のチームはエースと抑えをボロボロにされ、某T球団は四番打者がパンクした。被害ないチームがひとつ存在した。

ある力学作用するかどうかを、オレは試した。するとGはもともと力あるから息吹き返しその気になった。Nが不倫で不振。S使える。勝てばよし。仮に優勝逃しても、CSがある。余裕が開幕時と全然違う。そして、日本シリーズは扱けるべくして扱けた。オレは重要ポイントでチャンネルを合わせ、平尾や岸に秋波を送ったら、その通りになった。こういう奇跡起こるんやね。本当に不思議な体験でした。

で、S選手だ。Sといわれて、どんなプレーもまだ、映像的に浮かばないのだ。取り立てて個性があるとも思えない。わかりやすい行動。評論家や先輩諸氏の評判ほどに、オレにはスターとしての匂いがまだ、何も感じない。G球団という培養されたシャーレから、うまく醗酵しだした、有力株には違いないが、それがスターになるかどうかは、不明だ。

たとえばだ。Gに小笠原がいる、彼が新人時代、オープン戦の定期戦で、甲子園に来たとき、彼の打撃フォームは文字通りサムライに見えた。オレは年一回の彼の雄姿を見たいために年一の小笠原ウオッチャーになった。あの豪快なスイング。オレは市川雷蔵円月殺法のように感じ、以後、彼の断簡零墨の記事を探した。しかし、悲しいかな、日本ハムファイターズの記事は関西のスポーツ紙では絶望的になかった。とくに、キャンプ・オープン戦では。しかし、彼は実績で、報道されるようになった。

その後についていうことはない。彼の魂はサムライという形容に値する豪快な打撃フォームとスイングで、不可能を可能にしてみせる、意外性を放つ。それは、ラミレスの日本野球への適応能力の進化に呼応して、異彩を放つ。また、キム・サヨブの豪快なパワースイングにGファン以外も堪能する。

果たして、Gという特殊な環境で培養されたSが、彼らを超えるスターになりうるかどうか、現時点の成績に文句はない。しかし、オレはGファンではない。Gファンでない野球には少し目利きのオレを圧倒する魅力Sが提示できるかどうか、オレにはまったくもってわからない。新庄剛志はオレにはまちがいなく異性人でありつづけ、レジェンドを残した。オレの見方がきびしいというのなら、オレは「オレの流儀」でたまに見ている。すると、不思議にキミは結果を出している。不思議な体験をしている。ドラゴンズ戦の斎藤から打った逆転本塁打など、オレには投げた方がアホに見えた。キミがインコースなら思い切り振ってやろうと、痛烈なファウルしているのに、あそこにあの甘いシュートはないやろ、と思ったのです。

新庄剛志はちがう。まわりがすべからく打てない状況で、エース大野のパームボールという得意の変化球をレフトスタンドに放り込み、その一塁への映像は、瞬間を切り取った、カメラマンをして、不思議なポーズだった。

キミにGファン以外が求めるとしたら、「絵になるかどうか」だろう。オレはマー君なら映像が出る。斎藤佑もちろんでる。キミの映像まだ浮かばない。これナンデデショウカ。

二年目投手のK、映像にでる。あのカーブ、あのチェンジアップ、あの左打者の懐を攻める勇気、オレはテレビ画面だけやけど、彼の成長の未来を見たい。「オレの流儀」では、いま、一番美しいフォームで投げる投手に感じた。つい最近の完封試合投球少し見て。

さあ、S選手さん。

「願わくば、さくらの下で春死なん 云々」の西行法師のように、西へ流れて行くおっさん、にしたいか、どうかは、斎藤佑かKかS君キミのパフォーマンスか。さて、一応「オレの流儀」で、ボールを投げて見た。

以上。

オレの座右の銘(青春編)

「自分がもっとも良くつかえうるところに、自分の流儀や特性や天分が(あるとしたら、筆者注)最上の基盤と最大の活動の分野を見出しうるところに、常に自分を置きたい」(ヘルマン・ヘッセ『ナルチスとゴルトムント』
(訳者ワスレタ)

モウヒトツ。

「青春とは心の若さである(以下略)」松下幸之助

反逆、無頼の匂いなくして何が青春だ。ダルビッシュの魅力、天賦の才に気づき、本気だし、女優の妻を得、子供もち、さらに進化する、いつでも公序良俗に反する行為やってやる、という魅力満載、青春の華これぞ、力。(悪させいといっているのではない。匂いね)

負けじとライバルの涌井もパワー投球を捨て、自分の流儀を身につけエースに成長し日本一に貢献した。

サッカーでいえば、中村俊の左足から放つセットプレーは映像になる。だから、中田秀氏を追ってがんばっているのだと思う。しかし、オレはタイプとしてファンではない。遠藤(ガンバ)のように期待を裏切るプレーの方が好き。これって好みの問題ね。ラクして得点してくれるようなプレーとか、ファウル誘うプレーとか。突然、異常に動き回ったり。とにかく試合次第で予測不能の力。レアンドロ得て、磨きかかっているようにオレを楽しませてくれる。すまんのう。

最近ではグランパスの小川。