いや、ブログ巡りの日々、S・Mの体質強化策に左右はいかが?


いやね。S・Mというのは、相手があって成り立つのに、左右両刀風味は、いくら湘南の風でも琉球の風でも、そこまでありか、と思ってたんですよね。

2009年『月刊現代』が休刊という事実上の廃刊をした最終号でね、S・M氏は『月刊現代』の休刊を歴史的事件と書き、「新自由主義の壁に『現代』は阻まれたのだ。」と書いてですね、《ノンフクションの王道は、利害関係者でない作家が書く「第三者ノンフクション」だ。》と強調してですね、自分の肩書きつまり、《作家》という力点にやたら力入れてるんですね。つまり、「オレは作家だ」と強調しつつ、その担当2ページでは、ですね《起訴休職外務省事務次官》の肩書きは書かれていなのですね。

つまり、作家の書くノンフクションこそ、えらい、と読みようによっては取れたわけだすな。オレには。しかし、ノンフクションなら、誰でも書ける。別に作家の肩書きはいらない。確かに、作文技術は構成力のうまい下手はあるかもしれないけれども、食えないけれども、説得力ある事実がそこにあれば、その事実をどう理解し、どう読むかは、新聞記者がやろうが、《作家》がやろうが、作文技術に自信のある、素人がやろうが、要は、そこに書いてあることが事実として、説得力があれば、いいのではないかと、こちとらなんかは思ってきたわけですね。
で、S・M氏は「新しいノンフクションの構築」の限界性を述べているわけですよ。

1背任型
 彼の定義では新聞記者や通信社記者、放送局所属のジャーナリストが「職務を遂行する過程で得た情報ノンフィクションにする。しかし、彼の経験によると、質問内容に協力したのに、現実の記事には反映されず、取材者には別の目的があり、その特権を使ったメディアの記者たちを牽制しているんですね。というよにオレには読める。彼ら新聞、通信、テレビ局の記者たちが、自分の会社の系列から本を出すことは資本の論理から認めるけれども、他社出版者から刊行し、印税を貰ったり雑誌掲載の原稿料受け取りは《本来の職務に反する行為で金儲けしているのだからら「背任」のようなものだ。》と書いてるんだすな。


で、ですね。《誤解なきように願いたいが、私は「背任」型ノンフィクションを悪いといっているのではない。「背任」型でないと取材に限界があるということを強調しているのだ。》だって。

で、自分の著書の自慢と背任行為の言い訳を書いている、ようにオレは感じた。

《拙著『自壊する帝国』(新潮文庫)も、私が外務省という組織に所属し、そこで約3000万円の国費をかけてロシア語の研修を受け、その後、モスクワに外交官として勤務することができなくてはできなかった作品だ。》と自慢しているとしか思えない作文を書く。で、類似の企画を東京に住むロシア語を知らない作家が書く場合、取材、通訳の経費を試算したら2億5千万円かかると書いてるんですな。つまり、オレのような外務省を起訴休職の作家だから書けたと自慢しているとしか、読めないんですけどね。

オレの感想でいえば、ロシア語を知らない人がこのようなテーマを選ばないと、普通は思いますけどね。しかし、ロシアの崩壊について、知りたい《作家》なら、あるいは、ロシア在住ジャーナリスト経験者なら、書けたかもしれない、ですね。通訳は不要。要は取材協力者のネットワークを、S・M氏と違う環境で持っている人なら、書けるということもあったのではないかと、想像してみたわけです。

2「努力と才能方」

 組織に所属しない作家が《自分の能力と長時間の取材を基礎に作る》作品。しかし、大手出版社といえども、《しかし、新聞社、テレビ局などには、資本の規模においてどうしても適わない。》早い、話《作家》で食っていくのは大変だ、ということですわな。こんなの、いまさら、いわなくても、っていう感じだすな。新聞記者やテレビ局報道記者、通信記者に限らず、優れたノンフクションの筆者が二足のわらじをはいている例は枚挙にいとわないように思いますがね。売れるまでは。

何か、オレが『週刊金曜日』に書いてやっているのは、食うためではない、とアピールしているようにもオレには読めた。

で、

3、取材にコストがかからない読み物として面白く書く。という試み。また、自分の作品自慢。
聞き書き鞍馬天狗のおじさんは』(竹中労)などに学んだオレには手法的には、新しい試みとは思えない。沢木耕太郎なんか、カシアス内藤という、黒人ハーフのボクサー対象に惚れこみ、ボクシングのプロモーターまでやって『一瞬の夏』を著した作家だ。有名作家だけれども、自分の作品をノンフィクション賞にノミネートされたことが最近あり、沢木氏より実績でも取材経験でも文章表現力でも明らかに役不足と思える審査員たちが、戸惑った様子が、現在のノンフィクション作品やルポルタージュの《作家》の不足を現していて、皮肉に面白かった。立花隆氏も審査員やったかな。彼なら実績的に依存異存はない読者も多いことだろう。

で、自慢の作品は《その初めての試みが、ナチス・ドイツ第三帝国の崩壊をベルリンの地下壕で目撃した吉野文六元外務省アメリカ局長の聞き取りをもとに『現代』に1年間掲載した『国家の嘘』》だったと、PRと自慢しているわけですな。

で休刊した《『現代』編集部に感謝するとともに今後の可能性が奪われたことを悲しく思う。》

と書き、一方で、テレビの媒体にも出始め、自の身《作家》の地歩を固めているというわけです。

「右左に倣え!」というわけだすな。

イスラエル批判はしない、これ鉄則みたいですよ。資本の論理実にお見事、

その生態について論理的に追及する尊敬すべき、候補が岩波書店会社員だったとは、

http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-1.html(この論文・金光翔・キム ガンサン氏という若い筆者です。私はこういう方に二足のわらじで作家や評論家になっていただきたい、と感じました)。

S・M氏の起訴休職外務次官作家人生のほころびは、新しい《作家》誕生のノンフクションの退廃の始めの終わりにならないように、自分に都合悪いことに圧力かける体質そのものが、
オレにはいやらしい、外交官にしか見えませんがね。


それにしても、本多勝一も『貧困なる精神』を書き続けている雑誌の方向性が佐高信という元、プロの編集者が作家社長になり、こんなことになっているとは、
確かに、世の中「右も左もない。」

『金や!』ということにいきつくのかい。

本多勝一氏の信者ではないけれども、著書に大きな影響を受けただけに、この
《作家》になりたがる処世術について、『週刊金曜日』の書き手で、意欲ある本多信者は、ぜひ、『あるS・M作家の生態研究』のルポルタージュをモノにし、作家への道を歩んでくださいな。

オレのように三流PR誌の編集者で、作文技術がなく、老いてゆく、人間には、とてもできない芸当だ。(団塊世代のS・M作家へのひがみですよ)。オレしんどいこと嫌いやもん。ラク大好き。趣味大好き。S・Y大好き。これダブルの意味かけて見ました。いや、S・M氏が誰かなどオレ知りません。

つまり、こういう人が受ける世の中にIMAGINEが貧困な感じしただけだす。

ただの日記