転載 『いちご白書をもう一度〝愛の形〟 白い本の充填』

白い本の充填〝恋文の形〟新構想小説のブログ無料公開シリーズ
いつでも雨が降れば花が咲くシリーズ

いちご白書をもう一度(その1)

ちょっとだけ公開!




白紙本の充填

『恋文の形』




数詞 一





 序


謹んで部我路奈様に

捧げます

数詞はじめ

二○一三年四月吉日


乱雑な字で白紙本の頁になんの前触れもなく〝奴〟の文字が並んでいた。日付は1974・6

ひとは僕が恋のことで随分と
悩んでいると思っている
だけどひとが思うほど
自分のこころは乱れてはいない
たださびしいのは人を好きになることが
理想とはまったく違うところで
やっぱり僕のこころが動くことだ
縁がなければ諦めるしかないのだけれど
ひとを恋し好きになることを
あなたのような聡明なひとは
きっとわかっていないのだろう
いや僕のこころに感じ入られないのは
当然だったのかも知れません

僕はあなたの摩周湖のような
澄んだ眼が好きでした
あなたのような美しい眼は
ダヴィンチだって描きえないでしょう
そして、ダヴィンチだってきっと見つけることが
できない女性でした

白いフェンスが瀟洒に続く
二階建ての赤い屋根を見つければ
いまも僕のこころはなごやかになります。
生きることの喜び感じられた
一瞬はすっかり過ぎ去りました


 三寒四温の日々がいきなり桜が早咲き、桜前線が四月半ばには仙台まで届いたというのに、昨日の冷たい風はどうしたのだ。前日は奈良・吉野でも真夏にまで温度が上がり毛布がいらなくなったというのに、一は四月十九日に全国で放映されるという『リンカーン』を観にゆく予定だった。しかし、あえて、電車の時間表を確認しなかった。当日は仮家で三時三○分に目覚めた。深夜のチャンピオンズリーグリーガ・エスパニョーラなどを観るために、CS・BSアンテナをつけ、WOWOWやサッカー欧州パックに加入している。
 その習慣で目覚ましを午前三時三○分と七時に合わせている。目覚ましとして愛用しているのが旧ムーバのドコモ携帯からダウンロードした着メロと安邑奈美恵ファンサイトからダウンロードした画像だ。着メロは筆記の『桜ドロップス』であり、七時は『First Love』だ。この着メロに奈良・吉野に来ると野鳥のさえずりが加わる。ついちょっと前までは下手なウグイスも庭に来ていたものだが、さすがに四月半ば過ぎ、吉野の山桜も奥千本ぐらいしか残らない季節、大阪では、造幣局の通り抜けが賑やかになる週末、朝は雨らしいが昨日、朝のACC朝美放送の元気ぶりは、大阪ならではなはしゃぎぶり。榎田から三連敗するのだけは避けたい。一は、前日の肉缶スポーツのT氏のの叫びにも似たトチリ(東京ドームがホームランが出やすい球場なのに、興奮のあまり球場は「ホームランが出にくい」の発言! アナウンサーも心得て、やんわりと進行を途切れさせないあ・うんの呼吸!)
 Tさんが「ずっこいわ! うちも味方についてくれないと…」の意志さすれば、ならば応えて見せようぞ! をツイッターと実行動でいわゆる讀賣巨人軍にプレッシャーをかける内容を『春日NOTE2』に仕込んでおいた。どれほどの効果期待できるかわからなかったが、効果てきめん、いきなり澤村を攻め、鳥谷のタイムリーなどで二点先制! 四回には絶好調マートンがレフトへツーラン本塁打。その後もマートンは三打点の活躍、捕手の日高も本塁打の〝ツボ〟を持ち、加点などで八対一の快勝。朝のACC朝美放送七時から〝好シーン〟の長回し、コメンテーターには、一からいわせれば、〝まぼろしの四番打者〟Hがでているのだからびっくりだ。一が二軍中心のファンたちに期待されて書いたメールマガジンの連載は『いつも心に浜風を』だったことは甲子園球場といえば、六甲下しと浜風というのはもちろんだが、野網監督がHを天才的変化球打ちの上手さを見込み当時二軍監督だった陸時正善(おかじ しょうぜん)が育てた素材を、異邦人監督の飯星景二監督が二○○二年に就任すると〝四番打者〟の英才教育のチャンスを与えた逸材だったからだ。同期入団には右の代打で活躍する〝賢太郎〟こと関本賢太郎がいる。あのHだ。いや陽気なことまさに春爛漫! 五割に戻っただけでたむきん太郎もここまでバンザイできるか、という勢い。もちろん一は大阪が阪神タイガースの勝ち負けで朝のテレビ・ラジオの報道がどのような雰囲気になるかを肌で知っている。自らも四半世紀近く末席ながら仕事に関わってきていたのだ。わかる。だから、いま関西に住むことに不満はないが、正直、いまでも〝仮家〟はつらい。
 見たくもない元妻の顔や、うっとおしい仕草を見、風呂に入るのも気を使う、その上、必ず嫌味つきだ。なんとか耐えられるのは、息子と一緒に朝ご飯を用意するときだけだ。〝クルマ〟をちょっと借りようものなら〝ガソリン満タン〟四千円強のタクシー並の経費がかかる。それでも我慢しているのは、必要な資料がどこからともなくでてきて、その一行が重要な自分の心象風景の稚拙な年齢を重ねて要ることを知らしめていることに、自分史小説と銘打ったなら、この恥部も避けていてはいけないのではないか、という、思いがあったからだ。四月二○日、昨夜途中で中継が切れた甲子園球場での東京ヤクルト四回戦は延長十二回に福留がこの日、二本目となる満塁サヨナラ本塁打を打ち七対三で勝っていることを今朝、ツイッターで知った。そういえば、三対○で負けていた六回か七回に橿原のイオンモールにあるTOHOシネマズで観た『リンカーン』の帰宅後、テレビをつけると、福留が打席に立っていた。カウント3ボールから、真ん中高めにマロンが投げた直球を完璧にとらえた。同点スリーランとなり、中継の茶屋町放送の解説の遠山と亀山努こと〝カメちゃん〟の組合せがイケイケどんどんになっていた。一は、ナイター中継の宣伝見るのがめんどうなので、そういうときは、BSや狗HKやBSのその他の中継に切り替える。なぜ、そういうことをするのかというと、これは四半世紀も関わったプロ野球後遺症ともいえる。だから、、パ・リーグの動きも当然のように見る。そこには客観的に見る一の習性があり、自分がこういう行為をすれば、どういう結果がでるのか、この検証をしていることにもなっている。もちろん、誰かれにこんなこといえば「あなた、CTスキャンでもMRIでも検査受けなさい!」といわれそうなので、そんなことはいわない。
 実際相模原病院で脳外科などに行き、頭のCTスキャンを受けたとき、結果もらいに行ったらどっから見てもあの栄光周平さんがいた。だけど、ご本人という確信もないから、
「どやねん?」といわれても一は答えようがなかった。
「異常なかったみたいですね」と普通に答えたのは、誰にも悟られない、ドン・キホーテとしての生き方の選択があったからだったが、その行動の結末はまだ予断を許さない状況である。しかし、吉野の暮らしは、田舎でもあるので、時間のスピードを田舎の時間割に合わすこおtができる。これは、しっかり大都会化しつつある相模原市では味わえない日々だ。
 実際は、映画行くにも、近鉄南大阪線の越部まで歩二○分。帰りは坂道を二五分かける。吉野口まで約二○分。JR和歌山線乗り換えで二○分。また、まほろば線に乗りひと駅。乗り換え接続のいい時間帯は、朝夕と午後の一、二本ぐらい、乗り継ぎの時間の長さは読書や居眠りに当てられる。切符の購入のやりが方に慣れないとか、あわてると、逆方向に乗りそうだったとか、という問題もあわてて乗る理由がないほど、多分上映時間は二時過ぎだろうと読んで、TOHOシネマズに着く前には、久しぶりのぜいたくとNumber愚定食までゆっくり食べる余裕があった。
ここまで記したところで、場面は過去に書き記した頁へなぜかフィードバックした。〝T・Sさんへの便り〟の「T・S」さんが誰に宛てたモノなのか、現物の手紙原文をこの〝白紙本〟に書き記したいきさつも、一はまったく思い出せないのだ。しかし、書く必然なく書くハズがない。このミッシングリンクをつなぐメモ出て来た。それは、毎朝朝日にのオピニオン73に投書しようとしたメモだった。(白紙頁前文2頁〜12頁)


T・Sさんへの便り

拝啓

 約一か月余りの北海道旅行もいまは、新日本海フェリーの退屈な航海に身を任すだけとなりました。
稚内であなたと出会ってからはや二十日にもなります。あの時、ボクは随分ひと恋しくなる感じに襲われていました。遠くででさえずる野鳥の鳴き声が細く高く鋭く響くのを聴くころには、ちょっと感傷的な気分になり、かもめの群れなす飛ぶ交うさまを見ると、す
っかりこころが寂しくなっていました。
 小学生の遠足の子らの姿を見てやすらぎを覚えたものだ。あなたは、その小学生数人に取り囲まれて何やら話をしながら、氷雪の門の斜めうしろで、眼下に広がる稚内の街、港を飽きることなく眺めていたね。
旅の楽しさを味わっていたのでしょうか。
灰色の空からは時々鈍い光がこぼれ、風速十メートルはあろうかと思われる風は、最北の地にふさわしい寒さを肌に吹きつけて行く稚内公園。
稚内は夏とはいえども寒くて、北国の旅情を満喫させてくれました。でも、本当はあなたとお話することができたからそういう気持ちになったのだと思います。
北海道への路、夜行列車の車中で読んだ『殺される側の論理』(毎朝新聞記者)の本は随分ボクを刺激しました。まったく自分のことだけでも、もてあまし、ごく当たり前のことがわからず、ただ何となく月日が経つにゆだねている生活に、少なからず動揺を与えました。
いままで新聞のどこを読んでいたのだろうと反省させられました。世界のあちこちで起きている事件が、まるで自分の生活圏とはまったくかけ離れた存在であるかのような錯覚――。夢を見ていたとしか言いようがありません。
そのことに気がついたことを由として、自分を慰めています。
できれば日高の牧場でアルバイトしたいと考えていましたが、結局は二、三日牧場を見学しただけでおじけづきました。ここでもボクは夢を見ていたようです。
ボクはは競馬(とくに中央競馬)が好きです。馬も好きです。そして、それがこうじて、日高で……などとすっかり増長していたのです。
 日高地方は、想像していた以上に素晴らしいところでした。とくに新冠(にいかっぷ)は長いアスファルトの一本道が川に並行してどこまでもつづき、山に突き当たるまでの数キロメートルがひと目で見渡せます。そして、その両側の草原がほとんど牧場になっています。
牧場では、仔馬の親子の姿を見かけます。普通サラブレッドの場合、お父さんよりもお母さんの愛情だけで育つので、その情景がとてもほほえましくて、印象的です。
仔馬の親子は飽きることなく黙々と草を喰んでいます。生後二、三か月の当才駒は、疲れると前肢をゆっくりと折りヒザマづいて後肢を前に折りながら、突然文字通りペタっと大地に横たわります。
緑の大地にです。
実に可愛い感動的な一瞬です。
ある仔馬はボクが近づくとわざわざ柵に寄って来て、くいいるような美しい瞳をボクに浴びせてきました。旅行者はもの珍しいのでしょうか。手を差し伸べてもひとなっつこいので逃げません。サラブレッドは純血種だから、初対面のひとにもなつくのだろう。
実に可愛い。どれもこれも。
青草が刈られているところはそうでもないのですが、大部分の牧草地は、遠くで眺めているよりずっと深くかがむと大地に身体が吸い込まれるような錯覚を起こすほどでした。
実は夏の陽光でまばゆく天の高さを虚しく見つめるとどこからともなっく、馬のいななきが耳に快い響きを投げかけます。
ボクはすっかり満足しました。
しかし、こんな思いができるのは馬をつくる苦労を知らない所為です、サラブレッドを生産する仕事はこんな呑気なことを言ってはおられない。たいへんきびしいものです。
朝日が昇らない三時ごろには起き、放牧の準備をします。それから草を刈ったり、厩舎を掃除したり、寝藁を干したりの単調な仕事が延々と続きます。ボクがアルバイトを諦めた理由は、ほとんどの牧場が機械化が進み、いちばん忙しい交配期が過ぎて、あとは八月の初旬に始まる二歳馬のセリ市を待つ季節なので、そんなに人手を欲していないという事情があったのと前述したような厳しい生活は明日のことがつい頭に浮かぶ不安になるようなボクにはダメだと思ったからです。
随分と意志薄弱なことになりましたが、変に意地を張ることやめにしました。
それでも競馬を楽しむには、何の不都合もないではないか。そう考えています。
ときには〝男は黙って潔く○○ビール〟でも飲んで、牧場で昼寝をするのもいいものさ。


 この手紙退屈なフェリーの二等船室で書いています。小樽から京都の舞鶴港まで三○時間。二十八日午後十時定刻三○ほど遅れて出港した〝鈴蘭丸〟は三○日午前六時に着く予定です。とき、二十九日十四時十三分前、やっと航路の半分。多分佐渡ヶ島沖に近づきつつあるようです。ロビーのテレビに新潟地方の高校野球予選が写っていたのそう推測しています。ともあれ、お腹が減ってきました。
 この変でちょっとペンを中断して、船の食堂に行きました。実は懐が大変乏しいのです。だから、最も安いカレーを食べました。
横で美味そうにビール飲みながら、カツや焼き肉などを食べている連中を尻目に。――五分ごどで胃袋へ到達したようです。
金が無くなるとみじめだ。この調子だと、ひょっとすると晩飯を抜かないと舞鶴から大阪の自宅まで帰れないかも知れない。でも最悪の場合の方法は残っています。キセルすることです。それにしても、昨夜小樽でうな丼を食べたコトは後悔しています。
すっかり懐中のことを忘れ、足が勝手に匂いに釣られて入ったとしかいいようがありません。
江戸前風にねじり鉢巻半纏姿の活きのいい兄ちゃんに「うなぎ、すし、どっち」と尋ねられたとき、勘定を確かめずに口からでる言葉は「うな丼」なんて心にもないことを言ってました。
勘定が気になるモノですから、落ち着けすわけがありません。1・5の視力を駆使して店内を見回して、八五○円也を見つけたときはすべて後の祭りでした。こんあ調子だったから正直言って美味しくはなかった。高きうなぎに怨めしさを覚えながら、肌なまめかしいうなぎの切り身が食道からひといきに胃へ貫きていくさまは、ボクのみ知る感触です。
そう、複雑でした。


〝奴〟はここで、なぜ、この手紙をこの白紙本に書いたのかを次に書くメモから思いだしたのだった。

新たに白紙本を充填する作業の通し番号13頁からだ。

《一九七三年八月二○日 オピニオン’73 軍国教育と私

ボクは昭和二二年生まれ、いわゆる「戦争を知らない子供達」がもっとも多く誕生した世代です。したがって戦争えおはどういうものかとというのは感覚的にはわかりません。 しかし、ベトナム戦争の事実のルぽなどを見ると、当時の軍国主義日本といまの日本が本質的には変わっていないことが理解できます。ボクがこのことをハッキリ理解できるのようになったのは『中国の旅』(朝日新聞)で、日本軍国主義侵略戦争の犠牲になった人たちの生の声を体験を知ったからです。
これほど強いショックを受けた本は、いままでなかったといっても過言ではありません。》


〝奴〟この頁をまず一頁だけ埋め実頁には落書きのように1975年「ウオーッ」の漫画の吹き出しを書いていた。そして、突然横書きで一九七五年の日記を二頁六日分書いている。

 
《1月9日(木)くもり後晴れ
宵戎の日、「新しい年が明けてからもう9日か」そんなため息が出る酷しいスタート。大阪ラセン管を何とかモノにしたい。明日、本戎。残り福もある。文字通り苦しい時の神頼みをするが。ボクの耐久力を試す正念場が訪れたということだろう。自分の運を信じようではないか。

1月12日(日) 晴れ
寒波の襲来で北陸地方をはじめ山陰方面は豪雪が降る、雪不足で悩んでいたスキー場もほっとひと息といったところだろう。タケガワさんの家へ夕方訪問。水炊きをごちそうになり、ブリッジなどで時間を過す。久しぶりに楽しかった。

1月13日(月)晴れ

相変わらず寒い。懐も、仕事も。運があるのかどうかずぅと競馬をしているようなものだ。

1月26日(日)晴れ
おだやかな久しぶりに温かい1日だった。朝10時頃起き、11時喫茶店でコーヒーを飲む。「虹」横丁のコーヒーショップである。どこへでかけてもすぐに金がかかるし、不景気なので、楽天的に外へ向けて行動する気にならない。あるから見てしまうそんなテレビを見る。あまり金のかからない熱中できる趣味をつくる必要がある。

3/4(火)
5時前に仕事を終えて、朝日映画ベストテン1位の「砂の器」をフェスティバルホールに見にゆく。前評判通りでの内容の濃い、いい映画だった。「宿命」を背負った犯人―作曲家の過去が事件の容疑報告とともに暴かれていく演出の盛り上がりは本当に素晴らしかった。

3/5(水)
可もなし不可もなし。母の愚痴が煩わしくてつい、自分まで小言を並べたててしまう。「ああいやだやだ〜〜」といつも思っているのだが……一度口に開くとタタミかけるように毎日同じことを言ってしまう。「なにブツブツしょうむないことをいうとんの」
「もちょっとしっかりしいなぁ!」
「うっとおしい」etc》

〝奴〟はいわゆるオイルショック以後、急激な不景気により、仕事が激減した。そのせいで過去のしごと先の大阪ラセン管という西淀川にある会社まで直で営業を試みるようになった。大阪ラセン管は〝奴〟がD愛社の企画部時代に新規開拓して、レコードのLP判サイズの会社案内を企画して採用され、退社前に袋井工場なども取材した、夜中に大阪に帰るとその足でミナミのスナック通いするという、ハードな日々を過ごし退社日を待つという時代だった。
 次の頁は太い中マジックの横書きで詩のように書いている。〝奴〟の一九七五年の時代の空気が心理が心模様が知り得たとしても誰れが関心を持つかは疑問ではある。

《若葉は、今ボクに何ももたらさない。――
ゆううつをさける唯一の方法は何も語らず、
めくらになってただ寝るおとだ。
そう、そうすればボクを苛立たせる悪魔はこの世にいない。
五月二十三日(木)晴れ
 夏服を着た。チェックのブレザーと紺のパンタロン。この季節にふさわしい明るい色調を自分に感じた。――だんだんと心がリラックスして軽くなるのが感じられた。この苦しい環境をより強い精神力で歩む勇気が湧いてきた。

碁を打った。相手は上手の年寄りだった。三回やって三回とも勝てなかったが、だいぶ勘が戻ってきた。この調子で打ち込む回数が増えればあんなじじいに負けるわかがない。
(註 現在〝奴〟自身があんなオジンになっている。)

4/21
中秋の名月を見たつぎの日、残暑が酷しくどこを見てもひと人の服装はもちろん、陽射しのきつさも夏そのものであった。
「思いのたけ」夕方そんな言葉が頭に浮かんできた。――猪名川霊園の仕事の納期が明日にせまってきて、やらなければならないのはわかっているのだが、全然思うように進まない。いや、進まないというより進めようとしていないといった方が現状を正しくとらえている言葉だろう。昨夜だってそうだ。弟に借金返して、そのお礼にビール少々と焼き肉を腹いっぱい喰ったら、事務所に戻ってひとりになるとトタンに眠気が襲ってきた。何も襲ったなどというおおげさにいうほどたいそうな様子ではないのだ。東側の窓の45度の角度には中秋の名月がおやっとおぼろになって浮き上がっていた。――別に名月を見たからって頭が聡明にすぐなるものではない。仕方ないからフランスベッドのソファに中の字になって眠りを眠ることにした。この眠りを眠るという表現は大江健三郎のエッセイの中に何度もでてきたので一回何かの拍子に使ってみたいと思っていたのだ。それを今、この日記に書いてみる。何々いい言葉に感じる。そう昨夜、焼肉を喰ってから眠るにあたってボクはラジオをかけていた。たしか阪神対巨人の中継だった。野球といえば今日は近鉄が優勝をかけて阪急とやったので西宮球場が久しぶりに二万人の観衆があつまったそうだ。この試合、阪急山口高志が一○四球投げ、荒れ球ながら要所をがっちり押さ、三振十一を奪う三度目の完投勝利をものにしていた。一方、広島のデーゲームがこれまた赤ヘルの底力をまざまざと示していた試合だった。その時NHKラジオの相撲中継の合間合間に速報が伝えられていたのだが、逆転二転三転の末、八回山本浩二の逆転ホームランが決勝点となって、広島がヤクルトに4対3で快勝。これで一引分けを含んで六連勝を果たした。それにしてもことしの赤ヘルは強いや! ところで阪神対巨人だが後楽園は今日も五万人の観衆が入ったそうな。
 あんまり関心がなかった。眠っていたぐらいだから、そやけど巨人ななかどうでもいいんやから、まあ! 阪神さんが負けんようにがんばってくれやとは思っていた。このソファもともとベッドでソファにしているものだから背にさえぎられて伸ばすことができない。それで仕方なくいつも腕を頭のうしろに敷くがだらりとさりげなく両腕をたらすことになり〝中の字〟か小の字の状態でしか眠れないのだ。
 小一時間を眠ったあと時計は八時四○分ぐらいだったろうか。問題のいろいろ余録のある西側の窓からうるさいので下の方をのぞいてみた。ガス工事かなんかでガーガー、ギリギリとうるさいのも仕事のやる気を失くす原因だったのだ。が、まあそれはしょうないとしても寝間着姿のオッサンが三階のわが部屋を灯火を見上げていたので、直感的に、何度か階下降りてわかったのだが、そのオッサンは家主さんだった。小男の田舎の田吾作風のそのオッサンは鍵の束をジャラジャラいわしながら、待ち構えている風だった。それで仕方なしにさっさと退散した。日曜日に出勤していいかどうかを問うたら、やんわりと断られた。なんでも奥さんがボクが仕事を始めてから入院したとかで奥さんがいれば「あんたの要望に応えられますんけど……」どっちにしてもマンション違うからしょうないことやけど。》

 これだけの空白のある日記に〝奴〟の1975年という時間が空間がどのように支配されていたのかを垣間見れるのだが、それは多くのひとの人生がいわゆる日常の埋没なのだから、平凡な元コピーライターがいつも失恋して、母との付き合いに疲れて、それでも競馬で小遣い稼いだり、競艇のビギナーラックで稼いだりすったりしながらも生きて来た、それは自分史に時代の背景を彩り作業に結果としてなればいい、というささやかな願いでもあり、〝奴〟の「好きなひととだけときに語りたい」という思いのわがままぶりはが如実に顕れてきた、その後の人生につながっている。そして、〝奴〟自身が気付きもしなかった、空白の頁を埋まる作業がなぜか、詩的に描かれてていたのだ。なんという偶然の必然、〝奴〟は自分のちいささにがくぜんとするが、存外に生きるとはそういうことではないか。偉人は異人さんに連れたれても生きるが、凡人は天才肌とは無縁墓地だ。

(この後 〝奴〟はその後の30年何も変わっていない凡人ぶりに邂逅する。)
あとは発表しません。〝奴〟と市川寛子モデルの部我路奈の『二人の世界』だ。